八章 紅蓮の青竜


 その朝、マイカラスの王宮内は夜明け前から慌ただしかった。
 いよいよ、出陣の日だ。
 短期間でかつてない大軍が動員されたために、城内はごった返している。
 奈子と由維も、こちらに着いてすぐに支度を始めた。
 もっとも、由維にはこれといって準備があるわけではない。ちょっとした荷物をまとめるくらいだが、これはカードにしまってしまえばすぐに済む。
 その間に奈子は、着替えをしていた。
 奈子は一応、マイカラス王国の正騎士でもある。だから公式な行事の際には騎士の礼服をまとうのが常だが、今日の服装はいつもとは少し異なっていた。
 黒を基調とした深いスリットの入ったワンピースを、腰のベルトで止める。その基本的な形は変わらない。が、微妙にデザインが違う。
 それは、マイカラスの騎士の礼服ではなかった。
 こちらに着くと同時に、ソレアから渡されたもの。今日のために特別にあつらえたのだという。
 漆黒の、ビロードのような滑らかな生地。こういってはなんだが、マイカラスのものよりも上等な仕立てだ。
 胸の部分にある鮮やかな刺繍が特徴的だった。赤い地に、深い青の竜を描いた紋章。『紅蓮の青竜』と呼ばれる、トリニア王国の竜騎士の紋章だった。
 左手首にはめた、騎士の証である銀の腕輪もいつものとは違う。これにもまた、トリニア王国の紋章が刻まれている。
 奈子は今、千年前の大陸で最強と謳われた、トリニアの青竜の騎士の姿を完璧に再現していた。
 考えてみるとおかしな話ではある。レイナ・ディ・デューンが正式にトリニアの竜騎士であったことはない。
 若い頃はトリニアと敵対するストレイン帝国の竜騎士だった。後にストレインを出奔し、大陸北部のアンシャス地方を征服して自分の国を建てた。
 しかし――
 おそらく、これで正しいのだ。
 エモン・レーナ。
 クレイン・ファ・トーム。
 そしてユウナ・ヴィ・ラーナ・モリト。
 奈子は今、彼女たちの想いを受け継いでここにいる。
 この衣装を渡してくれた時、ソレアが言っていた。「これは、あなたが受け継ぐべきものよ」と。今なら奈子もその言葉を受け入れることができる。
 そして、奈子のこの姿にはもう一つ現実的な意味があった。
 士気高揚のためだ。
 この闘いにおいて、奈子はアール・ファーラーナだった。
 戦いと勝利の女神の化身、アール・ファーラーナ。それが事実かどうかは別問題として、象徴が必要だった。
 なにしろアィアリス・ヌィ・クロミネルは、トカイ・ラーナ教会にとってのアール・ファーラーナなのだ。教会が広く宣伝していたから、その名は大陸中に知れ渡っている。
 アール・ファーラーナが率いる軍は常勝不敗。古い神話に基づくその信仰は、今なお根強い。
 ただでさえ数の上では圧倒的に不利な戦いなのだ。士気で劣っていては勝てる可能性は全くなくなる。
 だから、精神的な支えが必要だった。
 自軍にアール・ファーラーナが存在するならば、敵軍のそれは偽者となる。初めてマイカラスを訪れた当時から、普通の女の子としては不自然な部分の多かった奈子のこと、「実は女神の化身だった」と言われれば信じる者も少なくない。
「こーゆーのって、どうかと思うけど……でも、ま、いっか」
 少なくともアィアリスよりは、僅かとはいえエモン・レーナの血を受け継いでいる奈子の方が、アール・ファーラーナを名乗るに相応しいといえなくもない。
 士気の高さが戦いの行方にどれほど影響するかはよくわかっている。だから、こうしたはったりで士気を鼓舞することも必要だろうと受け入れた。
 奈子のための戦いなのだから、自分にできることはなんでもしなければならない。
「なんだか、ジャンヌ・ダルクみたいですね」
 由維が笑う。
「うぅ……、最期は火あぶりってのはヤダなぁ」
「大丈夫ですよ。コルシアではアール・ファーラーナ信仰は異端じゃないですもん」
「……それはそうと、由維」
 奈子は、一枚のカードを取り出して由維に渡した。転移魔法のカードだ。
「奈子先輩?」
「もしもアタシに万が一のことがあったら、由維はこれで帰りなさい」
「奈子先輩……」
「二人が一緒だから、たとえ異世界でだって生きていける。一人じゃ無理でしょ。由維、お願い」
「……使うようなことには、ならないよね?」
 縋るような目で由維が見つめる。
 奈子はゆっくりと、しかし力強くうなずいた。
「あくまでも、万が一の保険。なにがあっても由維は安全だって思わないと、アタシは安心して闘えない」
「私、決めたんだから。この世界で、奈子先輩と一緒に生きていくって。だから……これが終わったら……」
 由維はそこで急に口ごもって、顔を赤く染める。
「なに?」
「……結婚式、したいな」
「え?」
 奈子は目を瞬いた。
 なるほど。それは確かに、向こうにいたら――少なくとも日本では――できないことだ。
 しかし、はたしてマイカラスでは、同性の婚姻が許されていただろうか。まあ、ハルティに頼んで特例として認めてもらうことはできるだろう。
 もちろん、これからは二人で一緒に暮らすことになるのだが、それはそれとして「結婚式」という儀式をしたいという由維の気持ちは理解できる。
「いいね。でも、どっちがドレスを着るの?」
「もちろん」
 由維が自分の顔を指さす。
「奈子先輩は、竜騎士の礼服。その方がカッコいいもん」
「アタシだって年頃の女の子なんだからね。ウェディングドレスだって着てみたいよ」
「じゃ、お色直しは二人揃ってドレス、ということで」
 二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。



 同じ頃、エイシスとリューリィも身支度を整えていた。
 しかし、二人の意見はまだまとまっていない。
「リューはここに残った方がいいんじゃないか? お前が行ったって、大した役には立たんだろ」
 同じ台詞を、この数日の間に何度繰り返しただろう。しかしリューリィは頑として首を縦には振らない。可憐な外見とは裏腹に、かなり頑固な性格の持ち主である。
「あたしだって一応、剣くらい使える。それに、フェア姉直伝の精霊魔法だって」
 彼女にとってこれは、姉同然だったフェイリアの弔い合戦なのだ。
 その気持ちはわかる。エイシスにとってもこの戦いは、奈子に対する償いであると同時に、フェイリアの復讐でもある。
 だから、あまり強いことは言えなかった。
「そうだな。だが、あまり前には出るんじゃないぞ。お前の剣なんか、実戦じゃ役には立たんからな。魔法でのサポートなら、それなりに使えるだろ」
「……わかったわよ!」
 ぷぅっとふくれるリューリィだが、それ以上反論はしない。自分のことを馬鹿にするような言い方であっても、それでエイシスなりに気を遣ってくれているということがわかるから。
 しかし、そこへ割り込んできた声があった。
「駄目よ。あなたはここに残りなさい。リューリィ」
「…………、……ソレア?」
 声のした方を振り返った二人は声を揃えて、疑問形でその名を呼んだ。
 馴染み深い声と、これまで一度も見たことのない装いのギャップに戸惑ったから。
 しかし、間違いない。確かにソレア・サハだ。
 先日、奈子との闘いの際に切った髪はいいとしても、身に着けているものが普段とはまったく違う。
 ソレアはいつも、純白のシンプルなドレスばかりを好んで着ていた。それが今は、漆黒の、騎士の礼服に身を包んでいた。
 エイシスが短く口笛を吹く。
「それが、紅蓮の青竜って奴か? 本物は初めて見たな。意外と似合うじゃねーか」
「……ありがとう」
 ソレアは奈子と同じ、トリニア王国の時代の、青竜の騎士の礼服をまとっていた。マントも留め金も騎士の腕輪も、すべてトリニアのものだ。
 それは正真正銘、竜騎士の戦姿だった。
「……それよりソレア。あたしにここに残れって、どうして?」
 暫し見とれていたリューリィが、はっと我に返って訊いた。
「そりゃあ、ナコやソレアに比べれば力は全然劣るかもしれない。だけど一人でも多くの兵が必要な戦いでしょう? 少なくとも、並の兵士くらいの戦力にはなるわ」
「ああ。確かに危険だろうが、本人が行きたがってるんだし、いいんじゃねーか?」
「本当にそう思う?」 
 リューリィの味方をするエイシスに向かって、ソレアが意味深な笑みを向ける。訝しげなエイシスとは対照的に、リューリィの表情が微かに強張った。
「きっとエイシスも、私の意見に賛成すると思うけど」
「ん?」
 なにやら、含むところのある笑みだった。
「リューリィ。あなたどうして、大切なことを隠しているの?」
「な、なんのことよ」
「あなた……、お腹に赤ちゃんがいるのでしょう?」
「――――っ!」
 リューリィの顔からさっと血の気が引く。
「なん……だって?」
 一瞬絶句したエイシスが、リューリィを振り返って訊いた。
「おい、リュー。本当か?」
「し、知らない!」
 視線を合わせないように、ぷいっと横を向く。しかし、かぁっと紅くなる顔を見れば疑う余地はない。
 エイシスは即座に断言した。
「よし決まり。お前は留守番だ」
 いつものように、ちょっと軽薄そうな笑いを浮かべて言う。
「ちょっと傭兵、なんであんたが決めるのよ! 誰も、あんたの子だなんて言ってないでしょ!」
「でも、俺の子だろ?」
「な、なに言ってンのよ! あたしは、ハシュハルドで一番もてた女の子なんだからね。言い寄ってくる男なんて、星の数ほどいたんだから!」
 これは誇張でも自慢でもなんでもなくて、まったくの事実だ。
 大陸でも有数の大都市ハシュハルドにおいて、彼女は評判の美少女だった。その街に住む若い男で、リューリィ・リン・セイシェルの名を知らない者はないというほどの。
 当然、プロポーズしてきた男だって一人や二人の話ではない。
「だけど、俺ほどいい男はいなかったろ」
 これが事実だと言い切れるのは本人だけだろう。リューリィも、そして奈子もきっと首を横に振る。
 真面目な顔をしていればそれなりにハンサムなエイシスではあるが、他に類を見ない、というほどの希少価値はない。なにより性格がそのまま表に出ているような、軽薄な笑いがいただけない。
「……自惚れ屋! 今度、鏡をよく見ることね」
「お前は留守番だ。……なあ、リュー。俺に、もう一度あんな思いをさせる気か?」
「――っ! …………」
 その一言で、リューリィは何も言えなくなってしまった。
 昨年のことを、思い出したから。
 奈子がエイシスの子を身籠もって、しかしお腹の子供をアルワライェに殺された時のことを。
 すべてが終わった後でその事実を知らされたエイシスが、どれほどショックを受けていたか。
 リューリィはそれを間近で見ていた。
「…………」
「戻ってきたら、結婚式だな。ハルティに金を出させて、うんと盛大にやるか」
 エイシスが妙に明るく言う。
「結婚……?」
 リューリィは、知らない単語を耳にしたかのような奇妙な表情を見せた。
 それくらい、予想もしなかった台詞だった。
「しないのか?」
「に、似合わないこと言わないでよね。勝手気ままな傭兵稼業のあんたが、結婚して家庭を持つって?」
「いや、傭兵は廃業だ。例えばこの国で、騎士になるってのはどうだ?」
「できっこないこと、言わないでよ!」
 つい、声が大きくなってしまう。照れていること、喜んでいることを知られたくないから。
 しかしまた、それがエイシスには似合わない台詞であるとも感じていた。
 十代前半の頃から十数年、傭兵として剣に頼って生きてきた男なのだ。
 その力は、どこの国に行っても正騎士として取り立てられるに十分なものだ。しかしエイシスは、傭兵として生きることを選んだ。「堅苦しい生活は性に合わない」と言って。
「……一つところで大人しく暮らせるような性格じゃないくせに」
 リューリィが唇を尖らせる。
 ハシュハルドにだって、戦争の合間に年に数回立ち寄る程度のものだったのだ。
「まあな。騎士は冗談だが、しかしちゃんと考えてはあるぞ。俺は、ホルカ族の族長と親しくてな。族長といっても、先代の族長だった父親の急死で三年前に後を継いだばかりで、歳は俺と変わらないんだが」
 ホルカ族は、家畜を追ってコルシア平原北部の広い範囲を移動する遊牧の民だ。その勢力と行動範囲は、数ある遊牧民族の中でも最大といわれている。
 旅の途中で、偶然その若い族長と知り合って。
 性格が似ていたためか、妙に気が合った。
 そして、部族の一員とならないかと誘われたのだ。
 その話題が出たのは、一緒に酒を飲んでいた時だった。
『こーゆーのんびりした生活もいいもんだな。俺のように年がら年中戦争ばかりしてると』
『だったら、俺たちと一緒に来い。どうせお前は、一つの街に腰を落ち着ける暮らしは合わんだろう?』
『確かに、悪くないな。家族を持ったら、今のような生活はできないだろうし』
 一つところに留まる暮らしは性に合わない。しかし妻や子供ができたら、勝手気ままな傭兵稼業というわけにもいくまい。そしてエイシスは、漠然とではあるが自分の子が欲しいと思っていた。
 ならば、遊牧の民としての暮らしはいいかもしれない。家畜を追いながら、広大な大陸の自然の中を旅する暮らし。
『なにしろお前は強いからな。俺も大歓迎だ。それに、ホルカの女は強い男が大好きだぞ。今なら選りどり見どり。いい話だろう?』
『そいつはいい話だ。いずれ、傭兵稼業に飽きたら世話になるとするか』
 その時は、話はそれで終わった。まだ当分、傭兵の仕事に飽きる気配はなかったから。だが、忘れたわけではない。
「……と、いうわけだ。悪くない話だろう?」
 事情を説明して、さぞかしリューリィは喜んでいるかと思いきや、なにやら目つきが嶮しい。
「リュー?」
「傭兵……」
 ドスの利いた声だった。
「あんたまさか、ホルカ族の中にも女がいるんじゃないでしょうね? 白状しなさいよ。いったい何人孕ませてンのっ?」
「あ、いや、それはまだ」
「……まだ?」
「あ、いや、その……なんだ……」
「…………ばか」
 リューリィの目に涙が浮かび、こぼれ落ちる。
 しかし彼女は、涙を溢れさせながら笑っていた。
「……いいわよ。仕方ないから、結婚してあげるわよ」
 目を真っ赤にして、手の甲で涙を拭いながらリューリィは言った。
 それから、ソレアを見る。
 それを手にして戦場へと赴くはずだった剣を、両手で差し出す。
「……これで、フェア姉の敵を討って」
 差し出された剣を、ソレアは小さくうなずいて受け取った。
「ええ、任せなさい。竜の剣の助けがあれば、私でもアィアリスと闘えるわ」
 決して大きくはない声で、しかししっかりと応えて。
 最後に一言付け足す。
「あなたはその間、子供の名前でも考えていらっしゃい」
「……うん!」
 泣き笑いの表情で、リューリィは大きくうなずいた。



「お兄様……」
 出陣の支度をしているハルティの許を、不安げな顔のアイミィが訪れた。
「……どうか、ご無事で」
「大丈夫だ。心配するな」
 ハルティは、わざと明るい顔で応える。その表情は、アイミィの目にはむしろ白々しく映った。
「しかし、その台詞はナコさんに対して言うべきじゃないのか?」
 そう言うと、アイミィはわずかに目を伏せた。
「…………ナコ様の前に出たら、私、きっと泣いてしまいます。大事な出陣を前にして、泣き顔なんて見せたくありません」
 それが、精一杯の強がりだった。
 戦の前に、泣き顔なんて縁起でもない。それではまるで、今生の別れみたいではないか。
 だから、出陣前には会わないことに決めた。戦が終わって奈子が凱旋してきたら笑顔で出迎えよう、と。
「……お兄様、どうかナコ様をお護りください」
「こんな時くらい兄を信用しろ。私は、そのために戦場へ向かうんだ」
「お兄様……」
 ハルティが、アイミィの頭にぽんと手を乗せる。アイミィは涙の浮かんだ目で、それでもなんとか笑顔を作る。
「それよりアイミィ、戻ったら驚く知らせがあるぞ」
「何ですの?」
「内緒だ。戻ってからの楽しみだ」
 子供のように、悪戯っぽくウィンクした。
 それが、必ず生きて戻るという、約束の代わりだった。



 マイカラス王国では過去数百年、これほどの大軍での出撃などなかった。
 およそ一万二千騎。それが、マイカラスが動員することのできる全戦力だった。
 近隣には何万もの大軍を擁する大国はないし、領土的野心を持たないマイカラスにおいて、戦争とは他国からの侵略を迎え撃つことに他ならない。敵が慣れていない砂漠の地の利を活かし、最小限の戦力で敵を防ぐことに専念する――それが、マイカラス軍の戦い方だった。
 しかし、今回は事情が違う。
 敵の兵力は、五万を優に超えていると思われる。おそらくは進軍途中でさらに兵を募り、マイカラスに到着する頃にはさらなる大軍に膨れ上がっていることだろう。
 難しい戦いだ。今回は広大な砂漠も、地の利も、十分に活かすことができない。レーナ遺跡を護り敵を近づけない、という目的がはっきりしており、広大な砂漠を縦横に駆け巡るというわけにはいかないのだ。
 遺跡の正面に布陣し、トカイ・ラーナ教会の軍勢を迎え撃たねばならない。
 敵を撃破するのではなく、遺跡の発動まで抑えておくだけとはいえ、容易なことではない。
 ここにいる全員、そのことを胸に刻み込んでいた。
 王都を発った軍勢は、砂漠を南へと進む。レーナ遺跡までは、三日ほどの道程だ。
 レーナ遺跡――トリニアの時代、デイシアの時代の神殿の遺跡の下に隠されていた、前文明の遺跡。
 十万年という、想像を絶するほどの遠い昔に築かれたもの。月を一つ破壊するという、途方もない目的のために。
 現在は強力な魔法で封印され、中に入ることはできない。唯一、奈子という例外を除いては。
 その封印はレイナによるものなのだろうか。それともエモン・レーナか、あるいはファレイア・レーナかも知れない。
 しかし遺跡を発動させるためには奈子が中に入らねばならず、その時には封印が解かれてしまう。敵も、遺跡に侵入できる。
 それを防ぐために、この軍勢がいるのだ。
 彼らが目的地に到着したのは、ちょうど陽が暮れようとしている時だった。
 血の色をした、大きな夕陽。
 まるで、これから起こることを暗示しているようだ。
 マイカラスの軍勢は、夕陽を正面にして遺跡の前に布陣した。トカイ・ラーナ教会の軍勢は、西から侵攻してくるはずだ。
 周囲の様子を探るために送り出した斥候の一人が、大急ぎで戻ってきた。南西から向かってくる軍勢がある、との報告を携えて。
 その数およそ二千余騎。
 全軍に緊張が走る。
 敵の先鋒だろうか。だとしたら予想よりも少し早い。
 しかし、周囲にはまだ他の軍勢は見えない。
 相手が二千ちょっとであれば、敵の本体が到着する前に全軍で迎え撃った方がいいだろうか。しかし、陽動かもしれない。
 思案するハルティに、ソレアが微笑みかける。
「心配する必要はありません。あれは味方です。ぎりぎり間に合ったようですね」
「味方?」
 その場の全員が、不思議そうに訊き返した。
 いったいどこから援軍が来るというのか。マイカラス国内の戦力は、すべてここに集まっている。
 しかしソレアには、秘密にしていたことがあった。
 彼らがマイカラスに味方してくれるかどうか。この日に間に合うかどうか。それがわからなかったから。
 彼らの国からここまでは、相当な距離がある。それに、これは元々ソレアのアイディアではない。
「味方……って?」
 奈子が訊いた。
「ナコちゃん、あなたのお友達よ」
「……?」
 心当たりはない。奈子はただ首を傾げる。
 やがて、なだらかな丘の向こうから、馬に乗った三つの人影が姿を現した。
 その後ろに続く騎馬の軍勢。確かに、二千騎はいる。
 奈子は驚いた。
 先頭の三人が、いずれも見知った顔だったから。しかも、こんなところで会うとは思いもしない相手だ。
 奈子が前に進み出る。ソレアや由維、ハルティたちも後に続く。
「あれは……」
「あの人は……」
「まさか!」
 驚きの声を上げたのはハルティとケイウェリだ。その軍勢が掲げる旗印に気付いたから。
 夕陽に染められたような、深紅の軍旗。
「……久しぶりですね、ナコ・ウェル。一年ぶりくらいになりますか」
 先頭の、長い金髪の男性が優しく微笑む。長い前髪が片目を隠していた。
「え、エイクサム……?」
 間違いない。エイクサム・ハル・カイアンだ。
 かなり強い力を持った魔術師で、大陸の歴史にも通じている。
 かつて、命を賭して戦ったことがある。敵地で助けてもらったこともある。
 そんな、因縁の相手だった。
 そして、彼の後ろの二人は……。何故ここに?
「援軍をお連れしましたよ。敵の兵力から見ればわずかとはいえ、役に立つはずです。紹介は……する必要、ありませんね」
「……うん」
 驚きながらも、奈子はうなずいた。
 今さら、紹介されるまでもない。どうして彼らがエイクサムと一緒にいるのかはともかくとして。
 その二人は、不敵な笑みを浮かべた男女だった。
 一人は二十代後半くらいの、やや痩せた男性。騎士の姿をしており、鋭い目つきが特徴的だ。
 そしてもう一人は、奈子と変わらないくらいの年頃の少女。ただしこちらも華麗な騎士の衣装を身にまとっている。
「エリシュエル……。それに、…………サイファー」
「ここに来れば、トカイ・ラーナ教会に一泡吹かせる最後のチャンスがある、と聞いてな」
 男の方が言った。
 サイファー・ディン・セイルガート。
 凄腕の騎士で、コルシア平原の南部にある大国、アルトゥル王国の赤旗将軍だ。奈子も一度、刃を交えたことがある。
 そして少女の方は、サイファーの妹のエリシュエル・ディン。
 幼い頃から兄の手ほどきを受け、アルトゥル王国の女性騎士でも一、二を争う実力の持ち主だという。以前、奈子がアルトゥル王国の闘技場に迷い込んだ時に試合をして、引き分けに終わった相手だった。あの決着はまだついていない。
 彼らの背後に展開した軍勢の中には、アルトゥル王国の紋章を描いた赤い旗が翻っている。間違いない。これはアルトゥル王国の精鋭、赤旗軍なのだ。
 少し前にアルトゥル王国は教会に大敗を喫し、国は滅亡寸前のはずだ。なのに何故、これだけの軍勢がここにいるのだろう。
「王国は敗れたが、私の軍が負けたわけではない。赤旗軍の主力は健在だ。あの女には借りを返さねばならん。お前の方の事情は、この男から聞いた」
 サイファーが、エイクサムを指して言う。
「だが、お前の事情などどうでもいい。ここに来れば、アィアリス・ヌィに雪辱するチャンスがある。それだけで十分だ。それに不本意ではあるが、お前には一度、命を救われた。だから今回は協力してやろう。それで貸し借りなしだ」
「……律儀な奴」
 奈子は思わず苦笑した。その高い身分の割には若いサイファーだが、頭はかなり固い。
「ナコ・ウェル、お前とはまだ決着が着いていない。その前に死なれちゃ困るのよ」
 エリシュエルが言う。妹の方もまったく素直じゃない。
 だけど、なんだか胸の奥が暖かくなった。
「ナコさん、これはいったい……?」
 由維はもちろん、エイシスもある程度の事情は知っているが、奈子とサイファーたちの因縁を知らないハルティが不思議そうに訊く。
「後で説明しますよ。今は時間がないし。とにかく、味方には違いありません。少なくとも、今日のところは」
「そのようですね」
 ハルティは笑ってうなずいた。
 この際、理由は問う必要はない。心強い援軍を得たという事実が重要なのだ。
 二千余騎という兵力は、敵が五万以上もいることを考えれば大した数ではないようにも思える。が、一万二千騎のマイカラス軍にとっては無視できない援軍だ。
 しかもアルトゥル王国は、大陸中でも指折りの強兵を擁していた大国であり、その中でも精鋭と謳われた赤旗軍が味方に加わったのだ。
 マイカラスの兵たちの士気も、否応なしに盛り上がる。
 サイファーはさっそく兵の配置や作戦について、ハルティやケイウェリ、ダルジィたちと打ち合わせを始める。その軍議に、奈子は加わらなかった。
 奈子は、ここでの戦闘に参加しないから。
 夕陽が沈む。
 空が、群青色に染まっていく。
 徐々に色を濃くしていく空では、東の空の月が明るさを増しつつある。
 あれを、破壊するのだ。
 奈子は黙って、空を見上げていた。
 敵軍の接近を知らせる斥候が、馬を駆けさせて戻ってくる。
 ソレアが側に来て、奈子の肩にそっと手を置いた。
「ナコちゃん、……お行きなさい」
「……ん」
 奈子は、戦いには加わらない。一人で遺跡の中に入ることになる。
「奈子先輩、頑張って」
「由維も、気をつけて」 
 そう言ってから、エイシスを見る。
「由維のこと、お願い」
「ああ」
「外のことは我々に任せて」
 笑みを浮かべてそう言うハルティ、そして傍らのダルジィ、ケイウェリ。
 順に見ていく。
 エイクサム、サイファー、エリシュエル、エイシス、ソレア。
 そして……由維。
 全員の顔を見回して、奈子は小さくうなずいた。
 もしかしたら、これが最後かもしれない――そんな考えは頭から追い出す。
 この戦いを終えたら、また笑顔で再会するのだ。
「……じゃ、行ってくる。また後で」
 それだけ言うと、奈子は一人で遺跡へと歩き出した。
 遺跡の周囲にいくつかある、入口の一つへ向かって。なだらかな丘の斜面にある地下への入口は、前回、由維と一緒に訪れた時に出口として使ったものだ。
 少し歩いてから、最後にもう一度後ろを振り返った。
 みんなが、見送ってくれている。
 黙ってうなずいて、奈子はまた歩き出した。
 灰色の土の上に、足跡が刻まれてゆく。
 荒野を渡る風が、妙に冷たく感じた。


「え?」
 遺跡に入ったところで、奈子は小さく驚きの声を上げて立ち止まった。
 入口からすぐのところに、人影があった。
 壁に寄りかかるように立って、奈子の顔を見て微かに笑みを浮かべている。明らかに、奈子を待っていたようだ。
 背の高い、黒髪の男性だった。身体は野生の肉食獣のような良質の筋肉に包まれている。
 顔は、まあハンサムと言っていいだろう。ハルティには及ばないが、エイシスには少し勝っているようだ。
 ……などと、落ち着いて観察する余裕があったわけではない。観察するまでもなく、奈子はその男に見覚えがあった。直接会ったのは初めてだが。
 そして奈子は会ったことがなくとも、レイナ・ディ・デューンにとってはよく知っている男だった。
 だからこそ、驚いた。
 こんなところにいるなんて。
 こんなところで会うなんて。
 夢にも思わなかった。
 遠い昔に死んだものと思っていた。
「……フレイム?」
 半信半疑で、その名を呼んだ。
 見た目は、二十代後半くらいの男性だ。しかしそれは仮の姿に過ぎない。その実体がまったく違った存在であることを、奈子は知っていた。
「フレイム……なの? まさか」
「知らないのか? 人間の時間感覚でいえば、俺は不老不死といってもいいほど長命なのさ」
 男が笑って応える。
 フレイム――それが男の名だ。
 フレイム・ファ・ハイダー。
 それは、大陸の歴史の中でもよく知られた名前だった。
 今からおよそ千年前、王国時代の末期。
 トリニア王国の竜騎士でレイナの双子の姉、ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの騎竜の名だ。
 当時のトリニアで……いや、この大陸で最強の青竜だった。
 そう、彼は竜なのだ。目の前に立っているのは、魔法による仮初めの姿でしかない。
 しかし奈子には、すぐには信じられなかった。竜は王国時代が終わって間もなく、八百年ほど前に絶滅したといわれていたのに。
 アィアリスの竜は、教会が作り出したクローンだ。生きた竜など、大陸のどこを探しても残ってはいない……はずなのに。
 レイナの方がフレイムよりも先に死んだ。記録ではその後、ユウナの娘であるレイナ・ヴィの騎竜を務めていたというが、いつしかその名は歴史から姿を消していた。人知れずどこかで死んだのだろう、というのがこれまでの定説だ。
「あんたも、クローンなの?」
「なんの話だ?」
 一応、訊いてみる。教会が作り出した竜のように、王国時代の遺骸から再生されたものなのか、と。
 いいや、違う。答えを聞く前から、それはわかっていた。
 これは紛れもなく、レイナの記憶にあるフレイム・ファ・ハイダーだ。
「どうして? 竜は何百年も昔に滅びたものだと思ってた」
 竜が生き延びていたなんて、大発見だ。
「そうらしいな。だけど、生きてた奴もいるのさ。俺のように」
 確かに、フレイムが言った通り、竜は極めて長命だ。王国時代でさえ、竜の寿命を正確に調べることはできなかった。
 トリニアの時代、老衰で死んだ竜など一頭もいない。竜の死因の大半は戦死だ。トリニアとストレインの戦争で、多くの竜が騎士とともに命を落とした。
「今まで、どこにいたの?」
「寝てた」 
 フレイムが平然と応える。まるで、待ち合わせの時刻に三十分遅れた言い訳をするかのような調子で。
「……は?」
「寝てたのさ。山奥の、深い洞窟の奥で。ぐっすりと。何百年も」
「寝……」
 奈子は絶句した。
 呆れた。心底呆れた。だけど、わかったことがある。
 竜は何千年も生きる生物だ。人間とは時間の感覚がまるで違うのかもしれない。人間たちと一緒に闘っていた時間など、彼にとってはほんの一瞬のことなのだろう。
「そうか、墓守たちね。いつかまた、竜の力が必要になるかもしれないと、そう考えていたんだ。ソレア……ユウア・ヴィでしょ。眠っていたあんたを起こしたのは」
「正解」
 フレイムが笑うのを見て、奈子はうなずいた。
 確かに、竜が必要だ。たとえ時間稼ぎをするだけであっても、ソレアがアィアリスと闘うためには。
 アィアリスは黒剣の王であり、かつ、竜を駆る騎士である。
 いくらソレアが竜騎士の力を受け継ぐ者とはいっても、竜なしでは到底太刀打ちできない。
 墓守たちは、いつか再び黒剣の王と戦う時のことを考えて、竜を眠りにつかせたのだろうか。
 そしてこの戦いのために、ソレアは竜を呼び起こしたのだろうか。
 フレイムはどんな思いで、それを受け入れたのだろう。
「それにしても、しばらく見ないうちにずいぶん若くなったな。レイナ」
「アタシはレイナじゃないわ。今は奈子よ。ナコ・ウェル・マツミヤ」
「入れ物が変わったって、中身は半分くらい昔のままだろう?」
「半分違えば十分。アタシはアタシ。他の誰でもない」
「……そうだな」
 フレイムは笑みを浮かべて、奈子の顔を真っ直ぐに覗き込んだ。
 奈子の心の中に、なんとも言い様のない、不思議な感情が湧き起こる。それは、奈子の中のレイナの部分が感じているものだ。
 レイナ・ディ・デューンと、フレイム・ファ・ハイダー。
 二人の間には、複雑な因縁があった。
 トリニアの竜騎士だったユウナ・ヴィ・ラーナ。その騎竜のフレイム。
 ストレインの竜騎士だったレイナ・ディ・デューン。騎竜はナゥケサイネ。
 ユウナがまだ生きていて、レイナがストレイン帝国の騎士であった時代、二人は幾度となく激しい戦いを繰り広げた。
 まだユウナが竜騎士となる前の最初の戦いで、レイナはユウナに重傷を負わせ、彼女の婚約者を殺した。
 レイナの騎竜ナゥケサイネを殺したのは、ユウナとフレイムだった。レイナもその時、ひどい傷を負った。
 そしてフレイムの騎士であるユウナを殺したのはレイナだ。
 大切な騎竜を殺した敵。
 大切な騎士を殺した敵。
 竜騎士と竜の間には、深い心のつながりがある。普通の、騎士と馬のつながりの比ではない。
 信頼。友情。愛情。
 戦いの時、騎士と竜の精神は一つに融合し、一個の生物のように行動する。騎竜を、あるいは騎士を殺されるのは、自分の半身を失うようなものなのだ。
 それがどれほど辛いことであるか、竜騎士でない者には決して理解できないだろう。
 しかし。
 ストレイン帝国を出奔した後、レイナはフレイムと共に戦って、ついにはストレイン帝国を滅ぼした。
 その間、一緒に戦っていたとはいえ、普通の竜騎士と竜の関係ではなかった。
 仲が良かったとも言い難い。
 相手に対する憎しみを、恨みを、すべて忘れたわけではない。
 そんな感情を抱いたまま、共に戦っていた。
 それでもやはり、心のつながりはあった。
 もしかしたら、愛していたのかもしれない。
 多分、レイナは決して認めないだろう。それはおそらく、奈子がエイシスに対する想いを認めないのと同じ感情だ。レイナと奈子は、そんなところが似ている。
「――――」
 奈子は真っ直ぐにフレイムを見た。それは奈子がというよりも、奈子の中のレイナがとった行動に思えた。
 微かな笑みがこぼれる。
「……最後の、戦いだよ」
「相手は黒剣の王か、久しぶりだ」
「これで、最後だよ。今度こそ、本当に」
「ああ」
「後のことはお願い。ソレアを……ユウア・ヴィの力になってあげて」
 最後にそう言い残して、遺跡の奥へと進もうとした。いつまでもここで油を売ってもいられない。戦いはフレイムとソレア、そしてマイカラスとアルトゥルの人々に任せるしかない。
「ユウア・ヴィ・ファラーデ・ラーナ・ファーラーナ。正統な血を引く最後の竜騎士……か」
 フレイムがソレアの本名をつぶやく。その長さが、彼女が受け継ぐ血の歴史を表している。
 改めてその名を聞いて、奈子はふと気付いた。
「ヴィ・ラーナってことは……ラーナ家の血を引いているわけだよね? ユウナの……つまり、レイナ・ヴィ・ラーナ・モリトの子孫なの?」
「ん?」
 フレイムが、おやっという表情をする。
 不思議そうに奈子の顔を見て、やがて、にやっと笑った。
「確かに、ヴィ・ラーナの血は引いてるがね。ユウナの子孫じゃない。……ふーん、そうか。憶えてないこともあるんだな、レイナ」
 なにやら含みのある言い方だった。フレイムはそれだけ言い残して、遺跡の外へと歩き出す。
 奈子は、その背中を見送った。
 何が言いたかったのだろう。
 確かに奈子は、レイナの記憶のすべてを把握しているわけではない。ほぼ完全な記憶を受け継いではいるはずだが、まだ記憶の引き出しが閉ざされていて、思い出せないことも多いのだ。
 レイナの剣を受け継いで以来、少しずつ、ほんの少しずつ、レイナの記憶が甦ってきているに過ぎない。
「レイナ……じゃない。ナコ、だったっけ。死ぬんじゃないぞ、こんなとこで」
「あんたもね。貴重な、最後の竜なんだから。生き延びたら、特別天然記念物に指定してあげるよ」
 冗談まじりに言う。フレイムはこちらを振り返らず、軽く片手を上げて応えた。
 そのまま、暗くなりはじめた空の下へと出ていく。
 突然、フレイムの身体が眩い純白の光に包まれた。
 破裂音が鼓膜を叩く。
 光は見る間に大きく膨らんで、巨大な、翼を広げた竜の姿になった。
 光が消えると、そこにあったのはまさしく、トリニア最大、最強の青竜の姿だった。
「竜……か」
 遠い昔、人間が敬意を払うべき神として創りだされた存在。
 人類の滅亡を避けるために。
 人間がもう少し、謙虚な存在になるために。
 確かに王国時代以前、人間は竜を畏れ敬っていた。
 それだけの力を持った存在だった。
 飛び去るフレイムの姿を、奈子は見送った。
 ソレアがいる、マイカラス軍の陣へと飛んでいく。湧き上がった驚きと歓声は、ここまで聞こえた。
 それを見届けてから、奈子はまた遺跡の奥へと歩き出そうとする。
 が、一歩踏み出したところで足を止めた。
「ヘンなこと言ってたな……。ソレアは確かに、ヴィ・ラーナの血は引いている。……だけど、ユウナ・ヴィの子孫じゃないの?」
 憶えてないこともあるんだな、レイナ。そう言っていたフレイムの声が甦る。
 はっと後ろを振り返った。
 もう、フレイムの姿はここからは見えない。
 奈子の口元がほころんだ。頬が紅くなり、鼓動が速くなる。
(まさか……そんなこと……。本当に……本当に?)
 しばらく、フレイムが飛び去った後の外を見ていた。
「なんと、まあ……マジで驚いた。こんな大変なこと、なんで忘れてたんだ?」
 抑えようとしても、笑いがこみ上げてくる。可笑しくて仕方がない。
 奈子は遺跡の奥へと足を進めながら、声に出して笑っていた。
 ここに来て、また、こんな驚く新発見があるなんて。
 ソレア――ユウア・ヴィ・ファラーデは、ラーナ家直系の血を引く最後の一人だ。だけど、ユウナの子孫ではない。
 だとしたら――
 可能性は、一つしかないではないか。



 その青竜は地響きを立てることもなく、静かにソレアたちの前に降り立った。
 竜の巨体から考えると信じられないことだ。
 最初のうち、竜の姿を目にした騎士たちは怯えていたが、やがてそれが味方だとわかると、全軍に歓声が広がっていった。
 目の前にいるのは、圧倒的な力の象徴だった。なんとも心強いことではないか。
 先日、王都で竜と闘った経験のあるマイカラスの騎士たちは、その力を嫌というほど思い知らされていた。
 竜とは、竜騎士とは、確かに圧倒的な力を持った存在だ。誰も口には出さずにいたが、敵軍に竜騎士がいるという事実に恐怖していた。
 しかし事情が変わった。こちらにも竜がいる。竜騎士の力を受け継ぐ者がいる。
 敵の竜騎士は、ソレア・サハがくい止めてくれる。
 自分たちは、敵の騎士団と闘えばいい。ならば、なにも怖れることはない、と。
 マイカラス王国の騎士も、アルトゥル王国の騎士も、敵が大軍だからといって恐怖を感じたりはしない。
 自分たちの力を信じている。人間同士の戦いなら、並の相手に後れをとることなどあり得ない、と。特にマイカラス軍にとっては、多数の敵と戦うなどいつものことなのだ。
 なにも怖れることはない――兵たちの士気は一気に高まった。
「ぎりぎり間に合ったわね」
 ソレアが、フレイムを見上げて言う。
「あなた、遺跡の方から来たわね。ナコちゃんに会ってきたの?」
 竜は小さくうなずいた。ソレアが微笑む。
「素敵な子でしょう? あの子が、レイナ・ディの遺志を受け継ぐ者よ」
 臆病な者なら見ただけで失神しそうなほどに恐ろしい竜の顔が、微かに笑ったように見えた。
「さあ、行きましょうか」
 ソレアは、フレイムに近寄って言った。
 地平線の上に、敵の姿が現れていた。
 まだ小さな点にしか見えないが、それは紛れもなく、アィアリスが駆る赤竜の姿だ。
 地面を蹴って、フレイムに跨る。首の付け根には、空戦用の鞍が取り付けられていた。もちろん、両脇には大竜刀も備えられている。
 ソレアは下を向いた。エイシスやハルティと目が合う。
 お互い、小さくうなずいた。
 同時にフレイムが地面を蹴って、翼を広げた。
 高度を上げるにつれて、地上に教会の大軍が姿を現す。こちらの軍勢も動き始めている。
 敵は、少なく見積もってもこちらの数倍はいるだろう。
「……苦しい戦いになりそうね」
(下のことを気にかけている場合ではないだろう?)
「そうね」
 ソレアは苦笑して、フレイムの言葉にうなずいた。
 どれほど戦力差があろうとも、地上の戦いはハルティたちに任せるしかない。
 自分は、アィアリスを抑えるだけで精一杯なのだ。フレイムの力を借りてなんとか、というところだろう。
 勝つことなど、最初から考えてはいない。とにかく時間稼ぎに徹する。
 命を賭しても、それが精一杯だろう。
「……それでも、やるしかないのよね」
 決戦の火蓋は切られたのだ。
 もう、後には引けない。
 ソレアは、竜騎士同士の空中戦のために特別に鍛えられた大剣――大竜刀を抜いた。



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