九章 銀砂の戦姫


 奈子は、遺跡の奥へと続く通路を歩いていた。
 暗い通路に足音だけが響く。
 うっすらと積もった埃の上に、四種類の足跡があった。奈子の進行方向とは逆に、遺跡の奥から外へと向かう足跡が。
 二つは、奈子と由維のもの。二人でここを訪れた際、遺跡から出る時にここを通った。
 残る二つは、奈子と同じくらいの大きさの女性の足跡と、もっと大きな男性の足跡。どちらも、ずっと古いものだ。
(レイナ……だろうな)
 レイナは、生前に一度はここを訪れているはずだ。強力な魔法で封印されていた遺跡の内部では、千年前の足跡ですら残る。
 だとすると、最後の一つは彼女の副官だったトゥートか、あるいはフレイムの足跡だろう。
 奈子は立ち止まった。
 外では、もう戦端が開かれている頃だろうか。
 結界と、遺跡自体が帯びている魔力が邪魔をして、ここからでは外のことはわからない。
 奈子にできるのは、ただ祈ることだけだ。
 ソレアは、無事だろうか。
 正直なところ、彼女ではアィアリスの相手は辛いだろう。
 いくら竜の剣を持っていても。
 いくらフレイムが味方でも。
 相手は、黒剣の王なのだ。
(ソレアさん……死なないで)
 本人は「無理せず時間稼ぎに徹する」と笑って言っていたが、それですら容易なことではない。
 少しだけ、迷いが生じる。
 遺跡の外に残って、闘った方が良かっただろうか。
 奈子が無銘の剣を持ってフレイムを駆れば、アィアリスを倒せる可能性もないわけではない。
 ソレアが闘うよりは、遙かに勝率は高い。とはいえ、それでも五分五分にすらならないだろう。せいぜい一、二割というところか。
 それが、黒の剣の力。
 それが、アィアリスの力。
 トリニアの軍勢がストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグを倒した時、いったいどれだけの竜騎士が犠牲になったことか。
 ファージを追ったトリニアの竜騎士たちが、いったい何人殺されたことか。
 だから、ソレアが生き延びる可能性は極めて低い。彼女が竜騎士の力を持ち、ラーナ家の末裔であるとはいえ、その力はせいぜい「やや優れた竜騎士」程度でしかない。
 それをいったら、マイカラスとアルトゥルの騎士たちの運命もどうなることか。
 戦いに勝っても敗れても、大きな損害を受けることは間違いない。ハルティはまだしも、前線で闘うダルジィやケイウェリ、サイファーやエリシュエルはどうなるだろう。
 奈子はぎゅっと唇を噛んだ。
 やっぱり、一緒に闘うべきだろうか。
(……いいや。もう、決めたことだ。自分のやるべきことを忘れるな)
 自分に言い聞かせる。
 皆は、奈子を護るために闘っているのだ。
 そのことを忘れてはいけない。
 奈子が運良くアィアリスを倒せたとしても、黒剣は残ってしまう。この世界を滅ぼすことのできる力が。
 そもそも、奈子がアィアリスに勝てると決まったわけではない。むしろ敗れる可能性の方が高い。
 千年前、ストレインの皇帝ドレイア・ディ・バーグにとどめを刺したのはレイナだが、その時彼女は一人ではなかった。何人ものトリニアの竜騎士たちと、力を合わせて闘ったのだ。
 奈子一人では、黒剣の王を倒すのは難しい。
(……もう、決めたんだ……)
 奈子がするべきことは、月が天頂に来る時に遺跡を発動させることだった。他の者たちはすべて、それまでの間、敵が遺跡内に侵入するのを防ぐためにここにいる。そのために戦っている。
 奈子を護るために、大勢の人間が命を賭けようとしている。
 涙が出そうになった。
 それを、ぐっと堪える。
(泣くな……。今はもう、泣くべき時じゃない)
 奈子は再び歩き出した。


 レーナ遺跡の最奥部は、直径が三十メートルほどの円形の部屋だった。
 頭上に天井は見えず、螺旋階段が刻まれた垂直な壁が、光の届く限界まで続いている。
 そして真上には、丸く切り取られた星空が見えた。まるで、大きな深い井戸の底にいるようだ。
 周囲を見回すと、壁に、三つの通路の入口が開いている。ちょうど正三角形を描くような配置で。うち一つは、いま奈子が通ってきたものだ。
 正三角形。それが、前文明の建築の基本デザインなのかもしれない。聖跡の『光の間』もそうだった。
 床も壁も、やや灰色がかった白い陶器のような、同一の材質でできていた。壁は磨いたように滑らかだが、床には一面に、同心円状の複雑な模様が刻まれている。
 それはまるで、大きな魔法陣のようだ。いや、まるで――ではない。これは正真正銘、魔法陣なのだ。一つの天体を破壊するという、かつてない強力な魔法を発動させるための。
 円形の部屋の中心に、一つの人影があった。
 髪を腰のあたりまで伸ばした、大人っぽい雰囲気の美しい女性だ。
 奈子の方を見て、静かに微笑んでいる。
 以前、由維と一緒に来た時も彼女を見た。
 奈子の胸に、懐かしさが込み上げてくる。
 慈しむような笑顔。それはまるで我が子を見守る母親のようだ。
 しかしそれは、生きている人間ではない。実体ではない。
 幻影。この遺跡に残る残留思念か、あるいは奈子の心が創り出した幻影だろう。
(そうか……)
 それが誰であるか、今なら理解できる。
 ファレイア・レーナだ。
 この遺跡を築いた者。
 エモン・レーナの母親。
 レイナやユウナにとっては、遠い祖先ということになる。
 レイナの中には、エモン・レーナから受け継いだ記憶もあるのだろう。それが、あの姿を創り出しているのかもしれない。
 奈子はゆっくりと、魔法陣の中心へと進んでいった。進むにつれて、ファレイア・レーナの姿がすぅっと消えていく。
 中心に立って、上を見上げる。まだ、月は視界に入らない。
 続いて、足下の魔法陣へ視線を移す。
 ついに――
 ついに、この時が来た。
 ファレイア・レーナの指揮によって築かれてから十万年間、この時を待っていた遺跡。
 この星の人類が作り上げた、最大、最強の兵器。
 それが今、長い眠りから目覚めようとしている。
 星を一つ、破壊するために。
 ごくり。
 喉を鳴らして、唾を飲み込んだ。
 小さく深呼吸する。
 腕を前に伸ばして。
「剣よ、我が手の中に、在れ」
 奈子の声に応えて、一振りの剣が手の中に現れる。
 無銘の剣。
 レイナ・ディ・デューンの剣。
 今から千年以上も昔、トリニア最高の剣匠が、多くのものと引き替えに生み出した魔性の剣。
 そして――
 ファーリッジ・ルゥ・レイシャを殺すために生まれた剣。
「ファージ……」
 ファージの顔が浮かぶ。
 金色の瞳を細めて、猫のように笑っている姿が。
(ファージ……あんたは、知っていたの? この遺跡のことを。エモン・レーナが何者なのかを。レイナが、何をしようとしていたのかを)
 今となっては、わからない。確かめる術もない。
 しかし、すべてではないにしろ、ある程度のことは知っていたのではないだろうか。ソレアには伝えず、自分の胸の中にだけしまい込んで。
(アタシは、ここまで来た……)
 奈子は剣を逆手に握ると、頭の上に掲げた。
 刃が、微かな青白い光に包まれる。刃が持つ魔力が、奈子の魔力と反応して放つ燐光。
 いよいよ、時は来た。
 この魔法陣は、巨大な兵器システムの一番外側の境界。システムを作動させるスイッチだ。遺跡そのものは、遙かに地下深く――おそらく地殻を貫通するほどの規模があるはずだった。
 今こそ、スイッチを入れる時だ。この巨大な兵器を作動させるには、時間がかかる。
 しかし――
 頭上に掲げた、剣を持つ手が震えていた。
「う…………」
 考え直すなら、これが最後のチャンスだった。
 この手を振り下ろしたら、もう後戻りできない。
 二度と故郷には帰ることができず。
 この世界に、致命的なダメージを与えるかもしれない。
 奈子は今、一つの天体を消滅させようとしているのだ。
 もしかしたら、とんでもないことをしようとしているのではないだろうか。
 両親の顔が浮かぶ。
 そして、亜依。
 美樹や高品や美夢。
 仲のよかった友達。
 彼らとも、二度と会うことはできない。
(いいの? 本当に、いいの?)
 大きな間違いを犯そうとしているような気持ちになる。
 そんなはずはないのに。
 ファレイア・レーナが築いたもの。
 エモン・レーナが、レイナ・ディ・デューンが、やろうとしていたこと。
 それを今、自分が成し遂げるのだ。
「う……く……」
 ファージの顔が浮かぶ。そしてフェイリアの、ユクフェの顔が。
 彼らは、奈子を止めようとしているのだろうか。それとも、奈子のすることを応援してくれているのだろうか。
 掌が汗ばんで、剣が滑った。何度も柄を握り直す。
 最後に浮かんだのは、憎むべきアィアリスの顔だった。
『もっと大切な人じゃないと、だめかしら?』
 そう言って、残酷な笑みを浮かべていた。
「う……う……、うわぁぁぁぁぁっっ!」
 奈子は叫びながら、力いっぱい剣を振り下ろした。
 鋼鉄すら易々と切り裂く無銘の剣は、魔法陣の中心に描かれた小さな円の中に深々と突き刺さった。
 一瞬、カメラのフラッシュのような閃光が迸る。
 奈子の中にある竜騎士の魔力が、剣を通して地下深くに撃ち込まれていった。
 魔法陣の複雑な模様が、ネオンサインのように輝きだした。光は中心から広がっていき、魔法陣全体が青い光に包まれる。
 奈子は片膝を着いて、床に半分以上突き刺さった剣を握りしめていた。
 あらん限りの魔力を注ぎ込む。これは、井戸の呼び水のようなものだった。
 奈子の……レイナ・ディの強大な魔力を持ってして、初めてこの巨大な遺跡は目覚めるのだ。
 なんの歯止めもなしに、魔力を放出する。
 あの、アルンシルを消滅させた力を、一点へ向けて解き放つ。
 意識が遠くなりそうだった。
 深く、深く。
 この星の中心部にある、無尽蔵といってもいいほどのエネルギーを引き出すために。魔力は月の軌道の中心――すなわちこの惑星の中心で最大になる。
 額に汗が滲んだ。
 一つ間違えば、力が暴走しかねない。そうなれば、マイカラス王国は地図から消えることになるだろう。
 慎重に、ぎりぎりまで力を制御し続けなければならない。月が遺跡の真上に来るその時まで。
 感じる。
 とても、とても深い場所で何かが目覚める。
 ノーシル――この惑星の中心で。
 十万年間眠っていた、この時を待っていた『力』が。
 最初で最後の、目覚めの時を迎えようとしていた。



 雷光が、網の目のように空を覆う。
 夜空が一瞬青白く染まり、星が見えなくなる。
 光のわずかな間隙を縫って、紅い竜が翼を翻す。
 その巨体を取り囲むように朱い光球がいくつも出現し、一斉に爆発した。爆炎が竜の身体を包み込む。
 相手が並の竜騎士であれば、これで勝敗は決しただろう。しかしソレアは、相手が無傷であることを知っていた。
 炎がアィアリスの視界を奪っているうちに、間合いを詰めて相手の頭上に出る。炎が消えるのと同時に、大竜刀を打ち込んだ。
 火花が散る。
 夜空に溶けこむような黒い刃が、ソレアの剣を受け止めていた。
 同時に、竜の牙と牙、爪と爪がぶつかり合って、耳障りな音を立てる。
 咆哮が響き渡る。
 動きを止めずに、ソレアとフレイムはすぐに相手から離れた。アィアリスが放った無数の光の矢がその後を追う。フレイムが展開した防御結界が、それをすべて弾き返す。
 防御をフレイムに任せ、ソレアは意識を集中していた。剣を顔の前に構え、目を閉じる。
「チ・ライェ・キタイ!」
 ソレアの唇がその言葉を紡ぎ出すと同時に、青白い光球が空を埋め尽くすように出現した。その数は優に百を超える。
 光球から次々に、アィアリスとその竜を狙って光線が放たれる。数百条の光線。その一つ一つが竜に致命傷を与えるだけの力を持っている。
 しかし敵の赤竜は、続けざまに襲いかかる光線を、重力を無視したような動きでかわしていった。どうしてもかわしきれない分だけを、アィアリスの結界が受け止める。
 ソレアは小さく舌打ちした。
 今のタイミングであれば、少しくらいは傷を負わせられると思ったのに。
「さすがに手強いわね。常にこちらが先手を取らないと……受け身になったら一発でやられるわ」
 ちらりと、下に目をやる。
 地上でも戦闘が始まっていた。
 重厚な布陣を敷いた教会の軍勢が目に入る。それを迎え撃つこちらの兵力は、一目でわかるほどに少ない。
「……楽な戦いではなさそうね」
 だが、こちらから支援してやる余裕もない。
 ソレアは、自分の敵に目を向けた。
 血の色をした紅い竜の背で、余裕のある笑みを浮かべている。
「……ヤな女」
 吐き捨てるように言うと、ソレアは剣を構え直した。



 それは、教会の軍勢の本体に、深々と打ち込まれた二本の楔だった。
 マイカラス軍の主力、ケイウェリとダルジィがそれぞれ指揮する部隊。
 それが、敵の進攻を一時的に食い止めている。何倍もの敵が、その場所に釘付けになっていた。
 ダルジィが得意とする、速度を活かした強襲戦術だった。選び抜いた騎兵で鋭い円錐陣を組み、敵に突入する。最小の兵数で、敵に最大の損害を与えることができる。
 しかし、危険な戦法である。本来は守りで使う戦術ではないが、兵数にこれだけの差がある状況では、多少無謀とも思える策を用いる必要があった。まともにぶつかれば、どうやっても徐々に押されてしまう。
 ハルティたちの予想では、ただ守りに徹して進攻を遅らせようとしても、敵は月が天頂に達する前にレーナ遺跡に到達してしまうのだ。
 だから、強引な手で敵を食い止める必要があった。
 それがこの強襲だ。敵にこちらが手強いと思い知らせると同時に、敵陣内部に侵入して乱戦を仕掛ける。
 それで、敵の前進は止まる。正面からぶつかった場合、この兵力差では敵は少しずつでも前進してくるが、こちらが敵陣へ突入すれば、相手のベクトルは内側に向くことになる。
 そしてなにより、この無謀とも思える強引な攻めは、敵に恐怖感を植え付ける効果もある。
 自分にはそうするだけの力があると、ダルジィは信じていた。
 立ち塞がる敵の騎士をことごとく斬り伏せ、馬を進めていく。
 共に幾多の死線をくぐり抜けてきた信頼できる部下たちが、後に続いている。
 誉れ高きマイカラスの騎士団。その中でも最高の精鋭たちだ。
 戦いの火蓋が切られてからそれほど時間は経っていないが、ダルジィの部隊は敵の大軍の奥深くまで入り込んでいた。
 いったい、戦が始まってから何人の敵を倒してきただろう。もう数え切れない。
 そして、これまでに斬り伏せてきた敵の数よりも、これから倒さねばならない敵の数の方が何倍も多いはずだった。
 敵陣深くに進むにつれて敵の抵抗は激しくなり、ダルジィたちの進軍の速度は遅くなっていく。
 まったく進めなくなった時が、最期の時だった。何倍、何十倍の敵に囲まれ、全滅するまで戦い続けるしかない。それでも最後の一人が斃れるまでの間、敵をここに釘付けにできる。
 生命を惜しむ気はさらさらなかったが、だからといって死に急ぐことも許されない。月が適切な位置に来るまで、敵を遺跡に侵入させてはならないのだ。
(馬鹿なことやってるよな、私も……)
 ダルジィは常に、愛する人のために闘っている。ハルティのためならば、この生命などいつ捨てても構わない。
 しかし今回の戦い、突き詰めれば自分の恋敵を助けるためではないか。
 つい、苦笑が漏れてしまう。
 本当に、馬鹿だ。
 しかしダルジィは、そんな不器用な生き方しかできないのだ。今さら、性格を変えることもできない。
 また新手の騎士が、ダルジィの前に立ち塞がった。さすがに教会の騎士の顔までは知らないが、周囲の兵たちの期待に満ちた目を見る限りでは、かなりの使い手らしい。
 その騎士を援護するかのように、一筋の魔法の矢が風を切る。
 一瞬、防御に気を取られた隙に、敵が間合いを詰めてきた。
 剣が疾る。
 痛みは感じなかった。それだけ疾い打ち込みだった。肩のあたりが浅く裂け、血が滲んでいる。
 一度横を通り過ぎた敵の騎士は、後方に回り込みながら追撃してきた。ダルジィは馬首を巡らし、相手の打ち込みを剣で受け止める。
 力で押してくる敵に逆らわず、押された分だけ後ろに下がる。下がりながら、身体の向きを変えて剣を受け流す。
 勢い余った相手が一瞬離れた隙を逃さず、ダルジィは鞍の上に立ち上がって跳んだ。
 信じられない身の軽さに驚きの表情を浮かべたまま、何も反応できずにいる敵の背中に、短剣を突き立てる。
 そのままもう一度跳んで、併走していた自分の馬に戻る。
 一瞬のことだった。
 主を失った敵の馬が、バランスを崩してどぅと倒れる。敵兵の間に動揺が走る。
(これでまた、少しだけ時間が稼げるか……)
 とはいえ、それも長くは続くまい。
 今はこちらが攻勢とはいえ、数の上では圧倒的に劣勢なのだ。疲労は蓄積し、兵力は少しずつ削がれていく。
(力尽きて動けなくなったところが、私の死に場所か)
 そんなことを考えた時。
 周囲に炎の柱が突如出現し、ダルジィの馬を止めた。
 白い閃光が視界を掠める。
 それはあっさりと防御結界を突き破り、ダルジィの左肩の下あたりを直撃した。
 バランスを崩したダルジィは、無理に逆らわずにそのまま転げ落ちた。二撃目を喰らわないためにはそうするしかなかった。馬上にとどまっていては狙い撃ちにされる。
 落馬の衝撃で、左肩に激痛が走った。血飛沫が散る。
 血を噴き出している傷を押さえ、ダルジィは顔を上げた。
 どうやら、敵にかなり力のある魔術師がいるらしい。まともに接近戦を挑んでは不利と見て、遠距離から狙撃してきたのだろう。
 ダルジィが倒れたのを見て、周囲の敵が勢いを盛り返してきた。遠くで白い光が瞬く。魔法の矢だ。ダルジィは剣を構え直した。
 防御結界が間に合わず、剣で魔法を弾き返す。
 腕に、鈍い衝撃が伝わった。王国時代に鍛えられたダルジィの剣は、生半可な魔法では傷も付かない。
 間髪入れず、馬上で剣を低く構えた騎士が襲いかかってくる。ダルジィは砂の上に身体を投げ出すように伏せて、その剣をかわした。
 同時に、相手の馬の脚を払うように水平に剣を振る。脚を切断された馬が地面に転がる。全力で走る馬の勢いは相当なもので、丸太を斬りつけたような感覚だった。衝撃は骨まで響く。
 傷の痛みを無視して立ち上がり、落馬した騎士にとどめを刺した。
 すぐに次の敵が襲いかかってくる。それも一刀で斬り伏せる。
 返り血だけではなく、自分の出血が左半身をべっとりと濡らしていた。止血をする暇もない。
 周囲を見回す。
 少なくとも彼女の周りには、他に味方の姿はない。ダルジィ一人だった。
(ここまでか……)
 いやだ。
 まだ早すぎる。もっと時間稼ぎをしなければ。
 まだ、死ねない。
 左右から襲いかかってくる敵の片方に、喉を狙って短剣を投げつける。もう一方は相手の剣ごと両断する。
 深手を負っていても、戦姫と呼ばれたダルジィの動きに衰えは見えない。
(まだまだ……一騎でも多くの敵を道連れにして、ここに釘付けしなければ)
 力尽きるその時まで。
 周囲を取り囲む敵の数が増えていた。つまり、彼女がここでこうして闘い続けている間は、それだけ敵の進攻は遅れるのだ。
 ダルジィの顔に、引きつった笑みが浮かぶ。
 血糊で滑る手を服で拭って、剣を構え直した。
「さあ、遺言を書き終えた奴から前に出な。マイカラスの戦姫と一緒にあの世へ行けるなんて、光栄に思うんだね!」
 気迫に気圧されている周囲の敵兵をダルジィは睨め付ける。
 今こそ、マイカラスの騎士として恥ずかしくない死に方を見せる時だ。
 後世まで語り伝えられるような。
 戦姫の名に相応しい戦いぶりを。
 そう決心した時。
 敵の様子に変化が見られた。なにやら、戦列に乱れが生じている。
 ダルジィは微かに目を細めた。彼女一人に構っていられない事態が起こったらしい。
 それがなんであるか、の見極めは後回しにした。ダルジィはすかさず、一番近くにいた騎士に短剣の最後の一本を投げつける。
 狙い違わず、短剣は相手の喉を貫いた。騎士は落馬する。
 間を置かずに地面を蹴って、その馬に飛び乗った。正面にいた敵兵を血祭りに上げ、一気に囲みを突破する。
 さらに、慌てて進路を塞ごうとした敵二人を行きがけの駄賃とばかりに叩き斬る。突然の出来事に、残った敵は遅れていた。ダルジィは全力で馬を駆けさせる。
 そこは少し小高くなった丘の上だったので、敵の混乱の原因を見て取ることができた。
 味方の新手が、ダルジィやケイウェリと同様に円錐陣を敷いて敵中に突入してきたのだ。
 それが誰であるかはすぐにわかった。見慣れない、紅い旗印が翻っている。
 アルトゥル王国の赤旗軍。
 見事な戦いぶりだ。速力を武器とする戦術はダルジィとも似ている。
 大陸中にその名の聞こえた、アルトゥル王国赤旗軍。ダルジィたちが苦戦しているのを見て、助けに来てくれたのだろうか。
 先頭を切って敵中を進んでいるのは、サイファーとエリシュエルだ。二人の連携は見事だった。一人一人でも相当な使い手のようだが、それが二人がかりで敵に向かうのだから、多少の腕自慢であってもひとたまりもない。二人で一人ずつの敵を相手にするのであっても、一対一の半分以下の時間で倒せるのであれば、結果的には効率がいい。
 二人は兄妹ということだったが、あれだけ息の合った連携ができるのはそのためだろうか。
 そして、麾下の騎士たちも勇猛だ。ダルジィは自分の部下たちを高く評価していたが、それにも劣らない闘いぶりだ。
 それも当然だろう。彼らの国を滅ぼした敵への、復讐の機会を与えられたのだ。
 遠くを見れば、ケイウェリの部隊も戦い続けていた。ダルジィの部隊も先頭が孤立しただけで、後続はまだ健在だ。
「私も、負けてはいられないな」
 敵中で孤立した部下たちと合流するべく、ダルジィは馬の腹を蹴った。



 部屋全体が、青い光に包まれていた。
 最初の頃よりも、ずっと光量が増している。
 奈子は床に膝を着いた姿勢のまま、剣を握りしめていた。
 意識を集中し、今にも暴走しそうな魔力を制御し続ける。
 自分の魔力が、何百倍……いや何万倍にもなったように感じていた。遺跡の膨大な魔力が、奈子の魔力と融合しているのだ。
 ぽたぽたと汗が滴り落ちる。
 外の様子は、どうなっているのだろう。
 アィアリスがここへやって来ていないということは、ソレアはまだ闘い続けているのだろう。
 他の者たちも、無事だろうか。
 ここにいる限り、わからない。信じるしかない。
 だから奈子は、ただ自分が成すべきことだけに意識を集中していた。



 マイカラスの国王ハルティ・ウェルの周囲に残っている兵は、普通では考えられないほど僅かだった。
 十騎にも満たない。しかもその中には、正確には軍人ではない者も混じっている。
 今はほとんどすべての戦力を、前線に送り出していた。敵の方が何倍も多い戦い、一騎たりとも無駄にはできないのだ。
 ここにいるのはハルティとエイクサム、エイシスと由維、そしてニウム・ヒロをはじめとする、数人のマイカラスの騎士。
 ニウムはマイカラスの剣聖と呼ばれた老騎士だ。さすがに馬を駆って敵に立ち向かうのは無理だが、その経験と知識は騎士団随一、他の騎士の及ぶところではない。だから今回は参謀として加わり、ハルティと共に小さな卓に広げた地図を見つめている。
 そしてエイクサム・ハル。優れた魔術師である彼は、参謀を務めると同時に全軍との連絡も受け持っていた。彼の力を持ってすれば、敵の結界を越えて戦場の様子を把握し、逆に前線の兵にハルティの命令を伝えることができる。
 刻一刻と変わる戦況をハルティたちに伝え、新たな指示を前線に伝える。それによってマイカラスの軍は無駄なく有機的に行動できるのだ。少ない兵力を最大限に活かすには、そうすることが必要不可欠だった。
 エイシスは本来、ダルジィやケイウェリらと共に最前線に出るつもりでいた。彼の戦闘力は、マイカラスの騎士団最強といわれるケイウェリすら凌駕するだろう。しかし結局、本陣に残ることになった。
 理由は、由維がここにいるからだ。彼女を護って欲しいと、奈子に頼まれたから。
 しかし、それでよかったのかもしれない。エイシスがここにいるからこそ、マイカラス軍は本陣に残すべき兵まで、すべてを前線に送り出せる。エイシスとハルティがいても本陣が持たないということであれば、それはつまりどうやっても負ける戦ということだ。
 エイシスは別に、前線に出られないことをもどかしくは思わなかった。この戦い、マイカラスにとっては総力戦だ。いずれ、ここにも敵が来るだろう。それまで力を温存しておくのも悪くない。
 そうならずに楽に勝てるのであれば、それはそれで目出度いことではあるが、期待はできまい。
 前線と連絡を取っていたエイクサムの表情が険しくなった。西の戦線が突破され、敵の一部が遺跡へ向かったという。
 ハルティをはじめ、そこにいた者はそろって眉をひそめた。由々しき事態だ。遺跡への侵入を許すわけにはいかない。
 しかし、それを防ぐにはどうすればよいだろうか。
 どの部隊もぎりぎりの戦力で闘っている。余剰兵力はない。
 この状況で他の部隊から兵を回せば、戦線全体のバランスが崩壊しかねない。
 計算し尽くした、ぎりぎりの作戦なのだ。それでなんとか、予定時刻まで遺跡を護ることができるかどうか、というところ。計算が狂った。
「遺跡に向かった敵の数は?」
 エイシスが訊く。エイクサムは、二百前後という答えを返した。
「だったら、そっちは俺が受け持つ。ここの護衛はなくなるが、いいよな?」
 愛用の大剣を手に取り、立ち上がりながら言う。
 ハルティはうなずいた。彼自身も優れた騎士だ。エイシスがいなくとも自分の身くらいは守れる。
 むしろ、エイシスの方が心配だった。
「一人で、か?」
「遺跡の狭い通路の中なら、十対一も百対一も大差はねぇよ。敵を全員倒せというならともかく、通さないだけなら楽な話だ」
「なるほど。しかし、無理はするなよ」
「ここらで少し、ナコに恩を売っておかねーとな」
 にやっと笑うと、エイクサムの方に向き直った。遺跡の入口まで転移魔法で送ってくれ、と依頼する。
 結界があるために敵は転移では遺跡に近付くこともできないが、味方であるエイクサムならば入口までは転移できる。遺跡に向かった敵を先回りすることも可能だろう。
「おい、ちび」
 最後にエイシスは、不安そうにしている由維に呼びかけた。
「行くぞ」
「え?」
「大切な恋人の危機だろうが。お前が護ってやらなくてどうする? それに、お前のことはナコに頼まれているからな。俺の傍を離れるな」
 由維の表情が、ぱぁっと明るくなった。
 そうだ。当然ではないか。奈子を護ってやらなければならない。
「うん!」
 由維は元気よく立ち上がった。



 レーナ遺跡の中に入るのは、由維にとっては二度目だった。
 まだ道順は憶えているし、うっすらと積もった埃の上に足跡も残っている。一番新しい、ただ一つだけ奥へと向かっている足跡は奈子のものだ。
「これがレーナ遺跡か。中に入れるのは、これが最初で最後だな」
 エイシスが物珍しそうに周囲を見回した。
 目的を果たせば、レーナ遺跡は消滅する。この巨大な遺跡全体が、一回だけの、使い捨ての兵器なのだ。月を破壊するための膨大なエネルギーの余波は、この施設そのものを吹き飛ばしてしまうはずだった。
 二人は何度か角を曲がり、枝道を無視して、やがて一本の長い通路に出た。
「よし、ここならいいか」
 捜し物を見つけた、という調子でエイシスが言う。
 この通路で、敵を食い止めようというのだ。
 さほど広くもない通路、たとえ敵が何百いても、並んで剣を振り回せるのは二人が限度だろう。エイシスは、一度に二人を相手にすればいいことになる。そして二対一ならば、彼に勝てる騎士などそうそういない。
「お前は、ナコのところへ行け」
 エイシスは、通路の奥を指差した。
「え?」
「お前が、ナコを護るんだ。傍にいてやれよ。あいつはどうも、一人だと自分の命を軽んじるところがあるからな」
 フェイリアと同じで……という台詞は、わざわざ声には出さなかった。
「あ……」
「お前がいれば、自分はそう簡単には死ねない身だと思い出すだろ」
 わざと軽い調子で言う。
「……でも、エイシスさん一人で……」
「お前がここにいて、役に立つと思うか?」
 由維は俯いた。
 確かに、ここにいても大して役には立てない。
 武器も使えないし、奈子のように素手で騎士を倒せるわけでもない。魔法だって、日常生活ではともかく攻撃魔法に関しては、由維はまだまだ未熟だ。
「お前は、ここにいても役には立たねーよ。だけど、ナコの傍にいれば違う。あいつにとって一番大切な時、一番近くにいなきゃならないのは、ユイ、お前だろ?」
「…………うん!」
 由維は顔を上げ、力強くうなずいた。遺跡の奥へと駆けだそうとして、立ち止まって振り返る。
「ありがと、エイシスさん。お礼に、この戦いが終わったら奈子先輩を一晩貸してあげる」
「そりゃどーも。だけど、リューには内緒にしてくれよ」
「あはは」
 二人は、顔を見合わせて笑った。
 小さく手を振って、由維は今度こそ遺跡の奥へと走り出す。エイシスは、その背中が闇に溶けこむまで見送っていた。
 やがて、反対側から物音が響いてくる。
 大勢の人間、それも武装した人間が立てる音だ。
「さぁて、と」
 エイシスは剣を抜いた。
 通路の向こうから姿を見せた教会の軍勢は、百人くらいはいるだろうか。
「俺はあいつに、償いをしなきゃならんからな」
 口の中で呪文を唱える。精霊を召喚する、フェイリア譲りの四大精霊の魔法。
 しかし精霊の反応はいまいち鈍い。これも予想していたことだ。ここは遺跡の魔力が強すぎるため、それを嫌って精霊が寄りつかないのだ。
 別に不利になるとは思わない。相手も条件は同じだ。まさか、高度な上位魔法の使い手もいないだろう。
 エイシスの姿を見つけて、敵が速度を上げた。抜刀して殺到してくる。
 嘲るような笑みを浮かべて、エイシスは呪文の最後の一言を唱えた。
 狭い通路に、炎が走る。
 いくつもの悲鳴が上がった。爆風に薙ぎ倒された者もいるのだろう。
 こうした場所では、爆発系の魔法がよく効く。一つ間違うと自分も巻き込まれるという問題はあるが。
 先手を打たれた敵が混乱に陥った隙に、一気に間合いを詰めた。爆発によるダメージから逃れた敵兵に向かって、剣を振りかぶる。相手はそれでも剣で受け止めようとしたらしいが、反応が遅かった。それに力も足りなかった。
 剣ごと真っ二つにされた身体が、左右に分かれて倒れる。エイシスはそのまま前に出て、横殴りに剣を振った。二人の敵が同時に両断される。
 これで、完全にエイシスのペースになった。機先を制された敵は怯み、逃げ腰になっている者が少なくない。
「どうした、もう終わりか? 根性なし共め!」
 大剣を肩に担ぐと、エイシスは口の端を上げて笑った。



 時間の経過と共に、マイカラス軍の陣形は崩れつつあった。
 ここへ来て、数の差が目に見える形に現れてきている。
 戦線の各所に綻びが生じ、敵味方入り乱れての乱戦が繰り広げられていた。
「それでも、おおよそ計算通りか」
 ハルティが苦笑する。空を見上げると、天頂近くまで昇った月が目に入った。
 もう、間もなくだ。
 この時刻までレーナ遺跡を守り抜いたのは上出来だろう。みんな、よくやってくれた。
「退却しますか?」
 こちらに迫ってくる敵兵の一団に気付いたエイクサムが訊く。ハルティは首を振った。
「その余裕はないだろう」
 エイクサムに、全軍への指示を出させる。この後新たな指示があるまで、各部隊の判断で交戦を続けること、と。
 そう言って、ハルティ自身が剣を抜いた。
 ハルティたちの姿を見留めた敵が、こちらへ向かってくる。その数はおよそ四、五十。
 それに対してこの場にいるのは、ハルティとエイクサム、そして二人の騎士だけだ。ニウム・ヒロをはじめ残りの者は、既に他の戦場へ支援に向かっていた。
 殺到してくる敵に対して、エイクサムが魔法を放つ。彼も、かなりの力を持つ魔術師だ。魔法だけに限っていえば、並の騎士など敵ではない。
 敵兵の中心で爆発が起こり、紅蓮の炎が地表を走る。
 混乱に陥った敵に対し、手を緩めずに追い打ちをかける。炎に巻き込まれなかった敵兵を、ハルティたちの魔法が一人ずつ狙い撃つ。
 敵の足が止まったところで、ハルティは他の二人の騎士と共に切り込んだ。エイクサムも剣を抜いて続く。
 自分の生きる道は、自分で切り拓かねばならない。
 次から次へと襲いかかる敵騎士を、ハルティの剣がことごとく斬り伏せていく。国王自ら戦場で剣を振るうのは久しぶりとはいえ、その腕はまったく錆びついてはいない。彼の実力は、マイカラスの騎士団中でもトップクラスだ。
 しかし、数の差は歴然としている。いくらハルティの腕が立つとはいえ、無傷ではいられない。
 いつしか敵に取り囲まれ、エイクサムとも離れ離れになった。付き従っていた最後の騎士が、魔法の矢に撃ち抜かれて落馬する。
(ここまでか……。いや、まだ終わってはいない。最後まで、闘うことをやめてはいけない)
 まだ、諦めてはいけない。最後の最後まで闘い続けなければ。
 自分に言い聞かせる。
 もう終わりだと思ってしまったら、それで本当に終わりなのだ。
 敵の数だって減っている。もう数えられるほどだ。なんとかこの場を切り抜けられる可能性がないわけではない。
 敵騎士の打ち込みを、剣で受け止める。ハルティの動きが止まったところに、別の騎士が襲いかかってきた。
「――っ!」
 その騎士の胸を、どこからか飛来した魔法の光が貫く。
「陛下っ!」
 甲高い声が響いた。
 ハルティと鍔迫り合いを繰り広げていた騎士の肩口から、鮮血が飛び散る。突然の負傷で相手の力が抜けた瞬間、ハルティの剣が敵の胸を切り裂いた。
 視界の隅で、銀色の髪が揺れる。
 血にまみれた、笑顔。
(マイカラスの戦姫……か)
 ふっと、口元に笑みが浮かんだ。
 ダルジィが、ただ一騎でそこにいた。
 自分の血か、それとも返り血なのか、全身血まみれだ。
 よく見ると駆っているのは彼女の愛馬ではなく、敵の馬だった。
 これまでくぐり抜けてきた戦闘の激しさが伺える。
 しかしダルジィが加わったことで、この場の決着はついたといってもいい。二人が協力して、残った敵を瞬く間に片付けた。
「……。陛下、ご無事でしたか」
 肩で大きく息をしながら、ダルジィが訊く。
「ああ、ちょっと危なかったけどね」
「よかった……よかった……」
 それは、心からの安堵の溜息だった。もしかしたら、目に涙が滲んでいたかもしれない。
 ハルティは意識して軽い口調で言った。
「ひどい格好だな、ダルジィ。名だたるマイカラスの戦姫がその有様では、戦況は芳しくないか」
「…………いえ」
 ダルジィは微かに頬を赤らめた。とても、想い人の前に立つような姿ではない自分を恥じるように。
 それでも、マイカラスの騎士としての役目を忘れたわけではない。
「ケイウェリが、残った兵をまとめて抗戦を続けています。敵の進攻は、ぎりぎりのところで辛うじて食い止めています」
「そうか」
 ケイウェリがまだ無事、その報告はハルティをいくらか力づけた。
「陛下も、そちらへ合流を」
 ハルティにそう促しつつも、何故かダルジィは馬を進めようとしない。
「君は?」
「陛下はお先に。私は、あいつらを片付けてから参ります」
 ダルジィの視線の先に、こちらに向かってくる敵の新手がいた。三十騎以上はいるだろうか。
 戦場全体で見れば、敵はまだ相当な兵数を残しているはずだが、かなり細かく分散されているらしい。これも、ダルジィやケイウェリらの働きによるものだろう。
 それによって、敵の進撃がかなり遅くなっている。
「一人で、あいつらの相手をするつもりか」
 ハルティは責めるように言った。
「今、陛下のお側に残っているのは私一人ですから。私が敵を食い止めるのは当然のことです」
 ひどく冷静な口調だった。ハルティは知っていた。ダルジィは、状況が危険であればあるほど見た目は冷静になる。
 死ぬつもりでいる、と。
 そう感じた。
 ダルジィの力は認めるが、闘い続けて疲労しているし、傷ついてもいる。この状況でさらに三十対一の闘いなど、勝算のあるわけがない。
 それでもダルジィは、当たり前のことのように敵に立ち向かう。
 本当に、素晴らしい騎士だ。精鋭揃いのマイカラスの騎士団でも最高だ。
 しかし――
「君の言い分を聞くわけにはいかない」
 ハルティはきっぱりと言った。
 今、はっきりとわかった。こんなところで、彼女を失ってはならない。ダルジィは必要な人材なのだ。マイカラスにとっても、そして自分にとっても。
「陛下」
「二人揃ってこの場から退却するか、それとも二人で闘うか、だ」
「陛下!」 
 ダルジィが慌てるが、それも無理はない。闘うとなれば、二人であっても勝算は少ない。彼女の立場としては、たとえ命に代えてもハルティを危険に晒すわけにはいかないのだ。
「ダルジィ、これは命令だ」
「……たとえ騎士団を除名になっても、陛下を危険にさらすわけには……」
「君には、貸しがあるだろう?」
「貸し……ですか?」
「憶えていないか? 子供の頃、負けたら何でも言うことを聞くという賭けで、私が勝ったのを」
「――っ!」
 もちろん、憶えている。
 初めて会った時の、剣の試合だ。
 確かに、そんな約束をしていた。しかしハルティは、その時なにも要求しなかった。遊び半分で剣を交えた相手がこの国の王子と知ったダルジィが泣き出して、そのままうやむやになっていた。
「ずっと保留にしていたからな。ここは私の言うことを聞いてもらう。こんなところで死ぬな。これは命令だ」
「……陛下」
「行くぞ」
 ハルティが、ダルジィの馬の尻を剣の腹で叩く。二人は並んで走り出した。
「……しかし、陛下」
「しつこい」
 ぴしゃりと、ダルジィの反論を遮る。
「君には、ここで私を護って死ぬよりも、もっと大切な役目がある。ここは何としても生き延びて、それを果たせ」
 その言葉を聞いて、ダルジィの瞳に輝きが戻った。
「はっ! 何なりとお言いつけください。命に替えても、その役目果たさせていただきます」
「ようし、その言葉に二言はないな?」
 にやりと、意地の悪い笑みを浮かべてハルティが言った。あまり、彼らしくない笑みだった。
「では戦が終わったら、この国の世継ぎを生んでもらおうか」
「……は?」
 ダルジィは、言われたことが理解できずに混乱した。
 世継ぎを……生む?
 その意味が徐々に染み込んでくるにつれて、顔がかぁっと熱くなった。
「よっ、世継ぎって……、へ、陛下っ!」
「命に替えてもその役目を果たすと言ったな? 今さら、否とは言わせんぞ」
「陛下……」
 泣く子も黙るマイカラスの戦姫の目に、涙が浮かんでいた。
 泣きながら、馬を駆けさせる。
 なんとしても、この場は生き延びねばならない。
 ハルティの、自分の、そしてこの国の未来のために。



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