十章 天の光


 暗い通路を朱に染めて、何十という死体が折り重なって倒れていた。
 生き残った者たちは、とっくに逃げ去っている。一応、彼我の力の差を認識するだけの頭はあったようだ。
 それほど大した敵ではなかった。この狭い通路では、あの程度の敵が何百いたところでエイシスの相手にはならない。
「……とはいえ、少し疲れたな」
 エイシスは剣を肩に担いでふっと笑った。さすがにまったくの無傷というわけにはいかないが、彼にとってはかすり傷程度でしかない。
 敵の新手が来るまで一休みしようか――と腰を下ろしかけた時、小さな足音に気付いた。
 一つだけ。
 たった一人、遺跡の外から入ってきた者がいる。
 アィアリスか、と一瞬緊張した。しかし、まったくの別人だった。
 共通点があるとすれば、若い女であるということだけ。
 知らない顔だった。
 ビロードのような滑らかな褐色の肌。
 明るい亜麻色の髪に、濃い茶の瞳。
 凛々しい顔立ちをしている。
 身なりは騎士だが、見覚えはない。
 しかし、ただ者ではなさそうだ。それはすぐに分かった。
 まとっている気配が、先程までの雑魚どもとはまるで違う。新手の雑魚が百人やってきた方が、よほどましだった。
「おやおや、まいったね」
 その女騎士の方に向き直り、エイシスは笑った。
 初めて見る顔ではあっても、それが誰であるか見当くらいはつく。
「……なるほど」
 相手はエイシスの姿を見留めると、美しい、しかし抑揚のない声で言った。
「あなたのような者が遺跡を護っていたのですか。ならば、最初から私が出るべきでしたね。無駄な犠牲を出しました」
 そう言って、剣を抜く。
 すらりと長い剣だ。それを見たエイシスは、なんとなく嫌な予感がした。
「名前くらい、訊いてくれないのか?」
「興味ありません」
 挑発でもなんでもなく、それが本心であるようだ。どことなく人間味に欠ける物言いだった。
「ちっ。傷つくねぇ、そーゆー言い方。俺は、エイシス・コットだ」
 エイシスは肩をすくめながら、自己紹介をする。
「お前、セルタ・ルフだろう? ティルディア王国の騎士、ヴェスティア・ディ・バーグの副官だった」
「それが何か?」
 肯定はしないが、否定もしない。
 初対面の相手に名前を言い当てられても、なんの反応も見せない。
 しかし、間違いない。
 セルタ・ルフ・エヴァン……いや、セルタ・ルフ・バーグというべきか。
 先代の黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグの副官であり、愛人。
 どういう経緯でアィアリスと知り合ったのかは知らないが、現在のトカイ・ラーナ教会では事実上、アィアリスに次ぐ地位にいる。
 黒剣の主ではないが、その影響を色濃く受けた騎士。ヴェスティアやアリスには及ばないとはいえ、その力は生半可ではない。並の人間であれば、黒剣を手に取った瞬間に発狂するはずだ。
 実際のところ、教会の軍勢で怖いのはアィアリスとセルタだけだった。
 アルンシルの消滅で中枢をそっくり失って、ただでさえ人材不足のところに、アルトゥルやハレイトンといった大国との戦争を続けている。アルンシルと運命を共にしなかった将たちの主な者は、現在はハレイトンとの南方戦線に派遣されている。
 外にいる軍勢の中で、力のある騎士はアィアリスとセルタだけのはず。とはいえ、普通の意味での優れた将が三十人いるよりも、この二人の方がよほど手強い。
 アィアリスはソレアを倒さねばならないから、今までセルタが全軍を指揮していたのだろう。遺跡に突入したはずの部隊が逃げ帰ったために、将軍自らお出ましというところか。
(これで、外の連中は少し楽になったかね?)
 エイシスは思った。
 外はかなりの乱戦になっている。五万の軍を一人で有機的に動かせるほどの将軍は、他にいないはずだ。いくら兵数が多くとも、各部隊がそれぞれの判断でばらばらに動いては、その数の利は活かせまい。
 教会……いやアィアリスにとって、この戦いの目的は遺跡の破壊である。それを優先するためには、兵にどれほどの損害が出ても構わないということか。
(外の連中は楽になったかもしれんが、俺はきついよなぁ。簡単にはいかねーだろ、こいつは)
 セルタが実際にどれほどの力を持っているのかは知らない。しかし聖跡を破壊したのは彼女だというし、あのアィアリスが片腕として全軍の指揮を任せていることだけでも、その力のほどが伺える。二人の黒剣の王に副官として仕えるなど、並の騎士に務まるわけがない。
「しかし、お前はいったいなんのために闘ってるんだ? 別に、教会やアィアリスに義理があるわけじゃないだろう?」
 答えは期待せずに、訊いた。
「したたかな男ですね、あなたは」
 セルタが、微かな笑みを浮かべたように見えた。気のせいかもしれないが。
「話をすることで、少しでも時間を稼ごうと? あなた方は、月が天頂に来るまで遺跡を護り抜けば、勝ちですから」
 エイシスは内心舌打ちする。読まれていたか、と。
 この闘いの目的は敵を倒すことではなく、遺跡の発動まで、敵をこれ以上奥へ進めないことだ。
 その目的は見失わない。無理に闘う必要はない。
 いつもの傭兵としての闘いなら、強敵と刃を交えるのはむしろ楽しくすらあるが、今は闘わずに済むならそれに越したことはない。ここでセルタを倒したとしても、自分も無傷では済まないだろうし、まだ次の敵が来るかもしれない。
 だから、セルタと直接刃を交えるのを、少しでも遅らせようとした。しかし、その考えは見透かされていたようだ。
「その手には乗りません」
 セルタが剣を構えた。
 両手で剣を持ち、横身になって脚を前後に大きく開く。
「そう言わずに、答えてくれたっていいだろう?」
 エイシスは相変わらず、剣を肩に担いだままだ。
「絆、ですから」
 期待していなかった答えが、ようやく返ってきた。
「え?」
「今となっては、そうすることが最愛の人とのたった一つの絆ですから」
「…………」
 単なる時間稼ぎ、最初から答えは期待していなかったが、これは多分、一番聞きたくなかった答えだった。
 ヴェスティアとセルタの間になにがあったのか、エイシスは詳しく知らない。フェイリアとソレアから、あらましを聞いただけだ。
 しかし抑揚のないセルタの声音からでも、揺るぎない決意だけは感じることができる。
 過去に何があったのかは知らないが、セルタの想いには共感できるものがある。
 溜め息をついた。
「やれやれ。剣を引いておとなしく引き上げてくれというわけにはいかない……かっ!」
 自分の言葉が終わる前に、地面を蹴った。
 一瞬で間合いを詰め、何気なく担いでいたように見えた大剣を真上から叩きつける。
 セルタはそれをまともに受け止めようとした、ように見えた。しかしすぐに剣は引かれ、斜めに力を逸らす。
 同時に、セルタが前に出てくる。エイシスのすぐ横を掠めるように通り過ぎる。
 腕に、灼けるような痛みが走った。上体をひねってかわしていなかったら、腕を切り落とされていただろう。
 セルタの剣は、目では追いきれなかった。エイシスはただ、勘でかわしただけだ。
「……トリニアの騎士剣術、か」
 背後に回ったセルタを振り返りながら、独り言のようにつぶやく。
 それは千年以上も昔、トリニア王国の竜騎士を最強たらしめた技。
 一見地味な動きではあるが、まるで隙のない流れるような動作が特徴だ。ゆっくりのようでいて、しかしその刃先は目で捉えられないほど疾い。
「これをかわしただけでも、称賛に値します」
 セルタは、既に剣を構え直していた。隙は見当たらない。
 その口調からは、闘いを楽しむという雰囲気は伝わってこない。ただ淡々と、事実だけを述べている。
「初めて見るってわけじゃないからな」
 エイシスは応える。
 今では忘れられてしまったトリニア流の騎士剣術ではあるが、それを今に伝える者がまったくいないわけでもない。
 例えば、マイカラスの戦姫ダルジィ。
 元々マイカラスの騎士の技はトリニアの伝統を色濃く残しているが、王国時代からの古い家系の末裔であるダルジィは、特にその傾向が強い。
 そして先日見た、ソレアと奈子の闘い。ソレアの技は正真正銘の騎士剣術だ。
 それらの動きの特徴を覚えていなかったら、今の一撃は危なかった。
「しかし……、ティルディアの騎士で黒剣の王の右腕だったお前が、どうしてトリニアの騎士剣術なんだ? 黒剣はすなわち、ストレイン帝国の皇帝の剣。トリニアは宿敵だろうに」
「ヴェスティア様にとっては関係のないことです。あの方にとってはトリニアもストレインも関係ありませんし、闘いに関しては合理的な方でしたから」
 セルタが応える。
「トリニア流の剣を使う理由は一つ。筋力で男に劣る女騎士にとって、これが最も優れた剣技だからです」 
 確かにその通りだ。元々、個々の騎士の力はストレインよりもトリニアの方が優れているといわれていたが、特に女性騎士については差が歴然としていた。ストレイン帝国の竜騎士だったレイナ・ディは例外的な存在だが、彼女だって実際にはトリニアの家系だ。
「だろうな」
 エイシスは剣を構えて踏み込んだ。ただし必要以上に接近はしない。
 体格と剣のサイズの差の分、リーチでは圧倒的に有利なのだから、そのぎりぎりの間合いで闘う。そうすれば相手の剣は届かない。
 しかし。
 セルタの剣が、エイシスの大剣に絡みつくような動きを見せた。エイシスの怪力が、見事に吸収されてしまっている。
 そのまま、セルタが間合いに入ってくる。
(やられる……下がるか? いや)
 セルタの剣は長く、踏み込みは鋭い。一度間合いに入られてしまったら、多少下がったくらいで逃れられるものではない。
 エイシスは一瞬で心を決め、逆に前に出た。大剣は、この近い間合いではかえって不利であるにも関わらず。
 剣で相手の刃を押し返しながら、肩口から体当たりする。小柄なセルタの身体が、後ろに飛ばされた。
 脚に一瞬の痛みが走る。いつの間にか斬られたらしい。しかし、構ってはいられない。傷を無視して前に飛び出し、バランスを崩しているセルタに剣を振り下ろす。
 その打ち込みを、セルタが剣で受け止めようとした。エイシスは刃が衝突する寸前で剣を止め、左手で腰の短剣を抜いて突き出す。
 短剣は、セルタの胸から肩にかけてを浅く切り裂いた。そこへもう一度、右手一本で握った大剣を叩きつける。
 目にもとまらぬこの連携を、しかしセルタは体重が消えたかのように軽やかに後ろへ跳んでかわした。
「……変則的ですが、なかなかのものですね」
「なにしろ育ちの悪い傭兵だからな。お前みたいに由緒正しい剣技なんて、習う暇がなかった」
 エイシスの左手から短剣が落ちた。血が滴る。
 手首を斬られていた。腱が切断されていて、短剣を握っていることができない。
 セルタが後ろに跳んで下がった、あの一瞬のことだろう。
 見えなかった。
 一見防御重視に見えるが、受けた攻撃に対して確実にそれ以上の反撃をするトリニアの騎士剣術。その恐ろしさを垣間見た。
 ぼたぼたと血が滴っている。出血が多い。
 動脈を切られたようだ。
 時間の余裕は、あまりない。
「くそっ」
 防御を固めて時間稼ぎ、という選択肢は奪われてしまった。それは向こうもわかっていることだ。
 長引かせたくない。だから、こうしたのだろう。
 月が天頂に来るまでの残り時間がどのくらいか。正確なところはわからないが、もうそんなに長い時間ではないはずだ。
(……次で仕留めにくる、か?)
 セルタにしても、これ以上時間をかけるわけにはいくまい。
 ここまでは無理な攻めをせずに、エイシスの攻撃を受けてはその隙に反撃を繰り返してきたが、そろそろ勝負を決めにくるはずだ。
 そのための布石として、エイシスが守りに専念できないようにしたのだ。こちらの残り時間を奪って、強引な攻めをさせる気だろう。
(そう……思い通りにさせるかよ)
 エイシスは斬られた左腕を高く上げた。
 少しでも出血を抑えるために。
 右手一本で剣を構え、静かに息を吐き出す。
「あてが外れたな」
 余裕を見せて、にやりと笑う。
 セルタの眉が、ぴくりと動いた。
「俺の時間を奪って、こちらから仕掛けさせるつもりだったんだろうが。……俺は、攻めないぜ。お前の誘いに乗って無理な攻めをするよりも、失血で意識を失うまでここに立ち塞がった方が、時間稼ぎになるからな」
「逃げないのですか? 追いはしません。今すぐ手当てをすれば、命は助かるでしょう」
「ばか言え」
 エイシスは不敵な笑みを浮かべる。
 迷いは微塵もなかった。


「ばか言え」
 その男は、落ち着いた口調で言った。
 迷いは微塵も感じられなかった。自分の死が、目前に迫っているというのに。
 セルタにはほんの少し、意外だった。
 確かに腕の立つ男だが、国に忠誠を誓った騎士ではなく傭兵のはずだ。なのにどうして、そこまでするのだろう。
「例えばお前がこの状況に追い込まれたら、尻尾を捲いて逃げられるか?」
「……なるほど」
 セルタはうなずいた。もっともなことだ。
 思い出した。エイシス・コット・シルカーニ。
 アィアリスが言っていた。この男は、ナコ・ウェルの恋人なのだ。
 愛する者を護るためなら、何を犠牲にしてもいい――それはかつて、セルタ自身も実践したことではないか。
 殺さない限り、この男はここに立ち塞がるのだろう。
 だから、セルタの方から仕掛けた。
 間合いに入った瞬間、エイシスが渾身の力で剣を振り下ろしてきた。傷を負いながらも鋭い打ち込みだ。
 セルタはそれを受け流して、相手の右腕を斬りながら前に出た。そのまま、無防備になったエイシスの身体を剣で貫く。
 勝った、と。
 そう確信した。
 それでも称賛に値する相手だ。あの状況下でまるで死を怖れることなく、冷静に相打ちを狙ってきた。
 しかし、セルタの騎士剣術はそんなに甘くはない。ヴェスティアから受け継いだこの技は、命を捨ててきたからといって破られるようなものではない。
 そのはずだった。
 なのに、どこか違和感がある。
 何も問題はないはずなのに。
 ――いや。
 最後の瞬間、セルタの剣に腕を斬られるより一瞬早く、エイシスは自ら剣を手放していた。
 何故?
 そのことに気付いた瞬間、セルタの頭部に衝撃が走った。


 セルタの身体は頭から壁に叩きつけられ、べっとりと紅い染みを残してずるずると床に崩れ落ちた。
 それきり、動かなくなる。
 エイシスは、拳を握って立っていた。
 血に汚れた拳だった。
「……あいつにさんざん殴られた経験が、こんなところで役に立つとは、な」
 自嘲めいた笑いがこぼれる。
 あの時、腕を斬られるより一瞬早く剣を手放し、その腕でセルタを殴りつけたのだ。
 高度な徒手格闘術が存在しないこの世界においてはあり得ない攻撃で、セルタにも読めなかった。
 奈子との付き合いが長いエイシスだからできたことだ。見よう見真似ではあるが、エイシスの腕力と小柄なセルタの身体を考えれば、十分に致命的な威力を持つ。
「さて……」
 エイシスは、自分の身体を見下ろした。
「俺にできるのは、ここまでか。さすがに……、これ以上は闘えんよなぁ」
 腹に突き刺さった剣。傷からは血が流れ出している。
 出血は他にもある。肩、脚、最後に斬られた右腕。そして左手首。
 流れ出る血の勢いが先刻よりも衰えているのは、決して傷が塞がってきたためではない。
「……くそっ」
 遺跡の奥、先刻由維が向かった方へと歩き出そうとした。
 しかし、脚に力が入らない。
 目が霞む。
 よろけて、壁に手をついた……はずだったが、その手にはもう身体を支える力は残っていなかった。エイシスの身体が崩れ落ちる。
 石の床の上に、血の染みが広がっていく。その速度は意外と遅い。もう、体内にそれだけの血液が残っていない。
「なんて……こった……」
 倒れて、床に顔が押しつけられた状態で、エイシスは笑った。
 可笑しくて仕方がない。
「……この俺が、…………女と相打ちかよ……。いくら……」
 いくら、相手が黒剣の影響を受けた者とはいえ。
 しかし考えてみれば、これまで男に負けた記憶はほとんどないのに、女に負けた記憶はいくつも甦ってきた。もちろんそれは、心理的な闘いも含めてのことだが。
 エイシスが勝てないと思った相手は女ばかりだ。
 そういう運命なのかもしれない。
 フェイリア・ルゥ・ティーナ。
 ナコ・ウェル・マツミヤ。
 ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。
 アィアリス・ヌィ・クロミネル。
 セルタ・ルフ・エヴァン。
 そして……。
「あぁ……そういや、…………子供の名前、決めてねー……」
 最後に浮かんだのは、緑の瞳を持つ美しい少女の顔だった。
 何故か、ひどく怒っているようだ。
『あんたねぇ! あたしに無断で、勝手に死ぬんじゃないわよ!』
 怒っている。怒っている。
 何故だろう。記憶にあるその少女の顔は、笑顔よりも怒っている顔がずっと多い。
 怒っている顔も魅力的だ――と常々思ってはいたが、本人にそれを伝えたことはないような気がする。
「……リュー……悪りぃ……」
 その言葉はもう、声にはならなかった。



 傷口から、血が噴きだしている。
 高々度を高速で飛行して、気圧が下がっているためだ。
 それでもソレアは、闘いを止めようとはしなかった。
 ソレアとアィアリス、二人が放つ強力な魔法が夜空を絶え間なく彩る。いまだにどちらも、相手に致命傷を与えられずにいる。
 ここまでは、なんとか持ちこたえてきた。ソレアの傷は浅くはないが、まだ戦闘力を失ってはいない。
 それもすべて、フレイムの力があればこそだ。
 王国時代末期の、最強の青竜。
 その力も、経験も、アィアリスの竜を圧倒していた。
 だから、ここまで闘えたのだ。悲しいかな、ソレアの力だけでは黒剣を持つアィアリスには到底太刀打ちできない。
 一度、相手と距離を取った。ちらりと空を見上げる。
「そろそろ、仕留めに来るわね」
 もう時間がない。月は、ほぼ天頂近くまで来ている。
 もう、あとほんの少し持ちこたえれば――
 しかしその前に、アィアリスは強引に決着をつけにくるだろう。ソレアがここまで粘れたのは、フレイムの力のおかげと、アィアリスが無傷で勝とうとしていたためだ。
 なりふり構わず来られたら、満身創痍の今のソレアでは持ちこたえられない。
「……やるわよ」
 ならば、先に仕掛けるまでだ。
 耳元で風が唸る。
 二頭の竜は瞬く間に距離を詰めていき、そのまま空中で激突した。
 閃光。
 そして咆吼。
 アィアリスの竜と組み合ったまま、フレイムが炎を吐く。灼熱の竜の火は相手の翼を灼き、その巨体を炎で包む。
 純白の刃と、漆黒の刃。
 対照的な二つの剣がぶつかり合った。
 黒の剣がソレアの身体を貫く。
 二頭の竜はそのままもつれ合い、地表へと墜ちていった。



 意識が戻って最初に目に入ったのは、巨大な、紅い竜の死体だった。
 続いて、傍らに座る長身の男の姿。
 ソレアは、地面に横たえられていた。
「……アィアリスは?」
 ソレアは訊いた。人間の姿をとっているフレイムに向かって。
「残念ながら、生きてるよ。たいした傷も負っちゃいない」
「遺跡の中へ?」
「ああ。あとはレイナ……いや、ナコ次第か」
「……そう」
 小さく溜息をついた。
 できるだけのことはやったが、それでもここまでか。
 起き上がろうとしたが、身体が思うように動かなかった。その割に、痛みはそれほど強くない。
 自分の身体を見ると、ひどい傷を負っていた。当然だ。あれだけ激しい闘いを繰り広げ、最後は黒剣に貫かれたのだ。
 見れば、フレイムもかなりの傷を負っている。
 ソレアの傷は一応フレイムが魔法で手当てしてくれたようではあるが、完全に塞がっているわけではない。
 黒剣によって受けた傷は、魔法では完全に治療することができないのだ。
 ある程度以上強力な魔法によって受けた傷は、それ以上の魔法でなくては治せない。それが、治癒魔法の限界だった。
 傷からの出血は続いている。このままでは助からないだろう。
 ソレアが失血死するのが先か、それとも遺跡の発動が先か。
 月が破壊されれば、黒剣の力は失われる。そうすれば魔法による治療もできる。
「……でも、それまで保ちそうにないわね」
 何故か、笑みがこぼれた。
「黙って寝てろ。とにかく、信じて待つしかないだろう」
「あなたの傷は?」
 表向き平然としているが、フレイムだってかなりの重傷のはずだ。でなければ彼は、アィアリスの後を追っているはず。闘いを継続できないほどの深手なのだ。
「竜の生命力は、人間とは比べ物にならんからな」
「そうだったわね」
 とはいえそれは、死ぬのに時間がかかる、という意味でしかない。黒剣がある限り、二人の運命は同じだ。……いや、フレイムの生命力ならば、遺跡の発動までは生き延びられるだろう。奈子が成功すれば、彼は助かる。
 ソレアは?
 かなり微妙なところだった。
 どうなるかは、その時になってみなければわからない。
 二人はしばらく無言でいた。
 地上では、まだ戦闘が続いているようだ。遠くから風に乗って、戦いの音が聞こえてくる。
「……ごめんなさい、不甲斐ない騎士で。私がもう少ししっかりしていれば……」
「いいから、黙ってろ。それにあれは相手が悪い。お前がトリニアの時代に生まれていれば、かなりいい騎士だったと思うぞ」
「……ありがとう」
 素直に、そう言えた。
 それは最高の褒め言葉だ。
「ところで、竜の剣は?」
「ここにある」
 フレイムは傍らに置いてあった剣を取ると、ソレアの手に握らせた。
 ソレアは、剣に向かって語りかける。
「あなたも、まだ闘い足りないでしょう。お行きなさい、相応しい騎士の許へ。あなたを必要としている者の手の中へ」
 その言葉に応えるように、ソレアの手から剣が消えていった。



 狭い通路に、何十という兵たちの死体が折り重なっていた。
 全員が教会の兵だ。
 その光景を見ても、アィアリスは眉一つ動かさなかった。
 そして、少しばかり毛色の違う者が二人。
 一人は、体格のいい赤毛の男だった。この男には見覚えがある。
 名前は、エイシス・コットといっただろうか。ハシュハルドで闘ったことがある。竜騎士でもなんでもない人間にしては、なかなかやると思ったものだ。
 そしてもう一人は、褐色の肌の少女。
 アィアリスはそこで、微かに眉をひそめて足を止めた。じっと、頭部から血を流している少女を見つめる。
「……私に断りもなく、勝手に死ぬんじゃないの」
 ぽつりと、それだけをつぶやいた。
 耳に聞こえるか聞こえないかという小さな声だったが、幾分怒りを含んでいるようだった。
 だけどどうして、腹立たしいのだろう。
 それは、セルタを殺した敵に向けられた感情ではない。
 なんの断わりもなく、自分の見ていないところで死んだセルタに怒りを覚えた。
 無論それは言い掛かりでしかない。セルタだって、好きで死んだわけではあるまい。
「…………」
 じっと、セルタの死体を見つめる。
 頭から壁に叩きつけられたのだろうか。壁に寄りかかるようにして、頭部が血に染まっていた。どことなく、驚いたような表情を浮かべているようにも見える。
 あまり、見栄えのいい死に顔とは言えなかった。
「せっかく、きれいな娘なのに」
 アィアリスはどこか寂しげな笑みを浮かべた。
 なんだろう、この感覚は。
 アルワライェが死んだ時に感じた、ぞくぞくするような感覚とも違う。
 今まで感じたことのない、不思議な感情だった。
 微かな、喪失感。
 普通の人間が言うところの「悲しみ」という言葉が一番近いのだろうか。
 自分に問いかけてみる。
 悲しいのだろうか。
 セルタが死んでしまったことが、悲しいのだろうか。
「……さぁ」
 よくわからない。
 そもそも、二人はよくわからない関係だった。
 セルタは別に、アィアリスの部下というわけではない。公式な身分はともかくとして、精神的にはアィアリスと対等に振る舞っていた。
 何故、一緒にいたのだろう。アィアリスが命じたのではない。セルタは自分の意志で、行動を共にしていた。
 なんの利害関係もないはずなのに。
 アィアリスが、ヴェスティアの形見である黒剣の所有者だから?
 ただ、それだけのこと?
 肉親や友人といった存在を持たないアィアリスにとっては、理解しがたい相手だった。
 考えてみれば、アルワライェの次に多く言葉を交わした相手だ。血のつながりがない以上、これはやはり「友情」と表現するべき関係なのだろうか。
 これまでアィアリスにとって、人間などちっぽけな虫けらと同列の存在だった。彼女にとって意味を持つのは、弟のアルワライェと、クレインやファーリッジといった竜騎士の力を持つ敵だけだった。
 セルタはそこへ入り込んできた、不思議な存在だ。
「友達……ね。そう考えると、けっこう面白かったかもしれないわ。もう会えないのが残念ね」
 アィアリスはセルタの傍らに屈み込むと、血まみれの顔にそっと唇を押し付けた。
 唇を汚したセルタの血を、舌で舐め取る。
 美味しかった。
 それでふと思い出した。
 同じくらいに美味な血の持ち主のことを。
 まだ生きている者の中ではただ一人、アィアリスにとって意味を持つ人間。
 ナコ・ウェル・マツミヤ。
 そうだ。彼女がいた。
 アィアリスのことを「アリス」と愛称で呼ぶのは、アルワライェとセルタと、そしてナコだけだった。つまりアィアリスにとっては他の二人と同等かそれ以上の、特別な存在なのだ。
「そうね。あの娘がいるのよね」
 笑みを浮かべて立ち上がった。
 それは先刻までの、どこか寂しげな表情ではない。
 心が高揚するのを感じる。これもまた、不思議な感情だった。
「残念ね……」
 残念なことに、残り時間はもうほとんどない。時間さえあれば、一度ゆっくり話をしてみても面白かったかもしれない。
 そうすれば、セルタのような「友達」になれたかも。
 考えただけで興奮する。友達をこの手で殺すというのは、どんな感じがするものなのだろう。
 機会があれば、ぜひ試してみたいものだ。
 本当に残念だ。
 兵を整えたりせずに、もっと早くに来ればよかった。
 ナコともっと話をして、親しくなって。
 それからこの手でなぶり殺しにすれば、もっと楽しかっただろうに。
「今さら言っても、後の祭り……か」
 アィアリスはまた歩き出した。
 遺跡のさらに奥へと。
 ところどころに枝道があるが、迷う心配はない。『力』を感じる方へと進んでいけばいい。
 徐々に、力が強くなってくる。
 そろそろ遺跡の最奥部のはずだ。
 そこに、ナコ・ウェルがいる。彼女が闘うべき相手が。
 しかし。
「……?」
 正面に、青い光が見えてくる。
 あれが遺跡の中心だろう。
 そして――
 その手前の通路に立っている、小さな人影がある。
 それが何者であるか気付いて、アィアリスは心底嬉しそうな笑みを浮かべた。



「……ふぅ。これでよし、と」
 奈子は、ゆっくりと顔を上げた。
 そして、真上を見上げる。
 彼女が立っているのは、大きな、深い井戸の底のような場所だった。
 遙か上に見える、丸く切り取られた夜空。
 月が、丸い姿を見せている。
 もう間もなく、遺跡の真上に来る。
 足下から、振動が伝わってきていた。まるで、地中深くから突き上げてくるようだ。
 壁が、床が、びりびりと震えている。
 レーナ遺跡が、活動を始めたのだ。
 この巨大な兵器は、既に臨界点を超えている。後はもう、放っておいてもよい。発射は自動で行われる。
 まもなく、レーナ遺跡は消滅する。月をひとつ道連れにして。
 いつまでもここにいないで、脱出しなければならない。遺跡の力の前では、防御結界など紙ほどの役にも立たない。
 奈子は、入ってきた通路に向かおうとした。
 その瞬間――
 突然、自分のものではない魔法の気配を感じた。
 誰かが、遺跡に侵入した?
「奈子先輩っ!」
 一瞬、幻聴かと思った。
 もっとも聞き慣れた、そして、ここで聞くはずのない声。
 殺気を感じて、反射的に身を伏せた。
 赤い魔法の光が、頭の上を掠める。
 耳をつんざく爆発音。
 吹き飛ばされて、通路から転がり込んでくる小柄な少女の姿。
「……由維っ!」
 奈子は立ち上がって、慌てて駆け寄った。
 間違いない。由維が、そこに倒れていた。
 全身血まみれで、ひどい火傷を負って。
「由維っ! 由維っ!」
「……よかっ……た……奈子先輩……無事で…………」
「由維っ! しっかりして!」
 ベルトにつけたポーチから、魔法のカードを取り出す。ありったけの治癒魔法のカードを。
 しかし手持ちのカードすべての力を解き放っても、傷は塞がらない。いくらか出血を抑えられたかどうか、というところだ。
 それは、この傷が極めて強力な魔法によるものだという証だった。なにしろ、ファージの治癒魔法を封じたカードが通じないのだ。
 それほどの力を持つ相手。
 この戦場には一人しかいない。
 その相手は、ゆっくりと通路から姿を現した。
「アリス……」
「おあいこ、でしょう? これで」
 朱い髪を手でかき上げ、アィアリスは残酷な笑みを浮かべた。
 おあいこ、の意味は分かる。彼女の弟を殺したのは奈子なのだ。
「前に言ったわよね? こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれるって」
 しかし奈子は、そんな台詞は聞いていなかった。
 自分の腕の中の、傷だらけの由維だけを見ていた。
「由維、しっかりして! 死なないで、由維!」
「……私は……大丈夫だから……」
 力なく呻いて、由維はぎゅっと唇を噛みしめている。
 傷に意識を集中しているのだ。魔力のすべてを注ぎ込んで、出血を抑えている。
 しかし、いつまでも保たないだろう。この傷は、由維程度の魔法では治せない。
 あの時のアィアリスの魔法は、奈子を狙っていた。直撃すれば奈子を殺せるほどの魔法だったのだ。
「……だから……奈……先輩……」
 奈子は、呆然と見つめていた。
 このままでは、死んでしまう。
 由維が、死んでしまう。
 救う術は、一つしかない。
 この傷の源である魔力を断ち切ること。
 すなわち――
 アィアリスを殺すか、黒の剣を破壊することだ。
 他に、由維を救う術はない。
 もう、猶予はほとんどなかった。こうして抱きかかえていると、由維の生命力が見る間に失われていくのがわかる。
「よくも、由維を……」
 奈子は立ち上がった。壁の近くの床に自分のマントを敷いて、由維の身体を横たえる。
「少しの間、頑張って。すぐに、済むから」
「…………」
 自分のやるべきことは、わかっていた。
 ここで由維を抱きかかえて泣いていても、何も解決しない。
 そんなことをしても、誰も喜ばない。由維だって、ソレアだって。
 ――そうだ。
 アィアリスがここにいるということは、ソレアとフレイムが負けたのだ。二人はどうなったのだろう。
 もしも殺されたのだとしたら。
 それは、奈子のために犠牲になったのだ。
 二人の死を無駄にしてはならない。
 ソレアもフレイムも、由維も、自分がやるべき事をやってくれた。外ではきっとハルティもエイシスも、自分の役目を全うしようと奮闘していることだろう。
 だから、奈子も。
 今、自分がやらなければならないことをする。
 アィアリスを倒して、由維を助けること。
 遺跡を守り通して、月を破壊すること。
 なんとしてもやり遂げなければ、死んでいった者たち、傷ついた者たちに顔向けできない。
 奈子は立ち上がって、アィアリスと向き合った。涙が溢れて頬を濡らしている。
「……こうまでしなくたって、本気で闘ってやったのに」
「こうでもしなきゃ、私の気が済まないもの」
 アィアリスが剣を抜く。
 漆黒の刃を。
「できれば、一度ゆっくりと話でもしてみたかったわね」
 まるで、友達にでも話しかけるような口調だった。
「……そうだね、時間がないのが残念だ。悪いけど、すぐに終わらせるよ」
「あら、剣を抜かないの? 剣なしで私に勝てるつもり?」
 魔法陣の中央に刺さったままの、無銘の剣を顎で指す。
「その手には乗らない」
 奈子は唇の端を上げて言った。
 無銘の剣は、遺跡の発動に必要なものだ。
 あれが、スイッチになる。
 力を集中し、制御するために。
 遺跡を起動する鍵として、最後まで必要なものなのだ。
「私が何を持っているのか、わかっているの?」
「わかってるさ」
 いくらなんでも、素手で闘えるとは思っていない。奈子よりも強い力を持ったアィアリスが、黒の剣を持っているのだから。
 力の差は、ハシュハルドで思い知らされた。無銘の剣を持っていても勝てなかったのに、素手で勝てる道理はない。
 しかし、無銘の剣を抜くわけにはいかない。
「剣なしであんたに勝てるなんて自惚れちゃいない。だけどこれを使わなくたって、アタシが使える竜騎士の剣は他にもある」
 奈子は、両手を前に伸ばして意識を集中した。
 そして、呼びかける。そこに、きっとあるはずの剣に向かって。
「剣よ、我が手の中に、在れ――」
 その言葉に応えて、手の中に剣が現れる。
 長い、純白の刃。
 それは磁器のような、非金属的な光沢を放っていた。
 竜の剣。
 この剣が、ここにあるのはわかっていた。
 アィアリスがここにいるということは、竜の剣を手に闘っていたソレアが倒れたことを意味するのだから。
 竜の剣――それは、トリニアの竜騎士ユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトの剣。
 フェイリアが持っていた剣。
 ソレアがアィアリスと闘うために用いた剣。
 遠い昔、レイナ・ディを殺した剣。
 そして今、奈子が竜の剣を手にして黒剣と闘う。
「……」
 遺跡の振動が、大きくなっていた。周囲の温度も上昇しているようだ。
 時間がない。
「行くよっ!」
 奈子は、魔法の矢を放射状に放った。同時に床を蹴る。
 アィアリスの防御結界が、魔法を受け止める。
 奈子は気にせずに剣を打ち込んだ。
 火花が散る。
 漆黒の刃が、奈子の打ち込みを受け止めていた。
 至近距離から魔法を連打するが、それでもアィアリスの結界は破れない。
 アィアリスは力で奈子を押し返し、そのまま剣を振った。
 鮮血が飛び散る。腕を浅く斬られたようだ。奈子は一度間合いを取った。
「猪突猛進では、私には勝てないわよ」
「……の、ようだね」
 剣を両手で構え直した。横身になって、脚を前後に大きく開く。
 純白の刃が青白く輝く。
「ふぅん」
 アィアリスは、興味深げにつぶやいた。
「あなたが、それを使えるとはね」
 奈子の構えは紛れもなく、トリニアの騎士剣術だった。今では伝える者も少ない技、しかも奈子がこれまで見せたことはない。さぞかし意外だろう。
「……姉に、教わった」
「姉?」
 訝しげな表情を浮かべるアィアリスに向かって、からかうように笑ってみせる。
「ユウナ・ヴィ・ラーナさ」
「――?」
 それは、レイナの記憶だった。
 ストレイン帝国の騎士であったレイナは、トリニア流の剣技を身に付けていたわけではない。が、ユウナとの闘いを通してその技を盗んでいた。
 いや、ユウナが、闘いを通してレイナに伝えようとしていたのかもしれない。
 いずれにしても、アィアリスはそんな事情を知らない。
「面白いわね」
 今度はアィアリスから仕掛けてくる。
 疾い。
 奈子は打ち込みを受け止めると同時に、右足を後ろに引いて半身の体勢になった。相手の力を受け流しながら、その足で床を蹴って前に出る。
 二人がすれ違い、同時に振り向いた。
 二人の腕から、血が流れていた。
 また、間合いを詰める。
 剣と剣がぶつかり合う音が響く。
 常人の目では、その刃の動きを捉えることはできないだろう。ただ、次第に二人の傷が増えていくのを見るだけだ。
 それでも、致命傷はひとつもない。
「……やるじゃない」
 アィアリスは楽しそうに言った。
「時間がないのが、残念だわ」
 周囲の温度は、はっきりわかるくらいに高くなっているし、振動は地震並みに大きくなっている。
 魔法陣が放つ光も、さらに強くなっていた。
 残り時間はもう、あと数分もないのではないだろうか。
 闘いを楽しんでいるように見える二人の顔にも、焦りの表情が浮かんでいた。
 アィアリスは、それまでに遺跡を破壊しなければならない。
 奈子だって、いつまでもここにはいられない。遺跡の「砲撃」に巻き込まれたら、防御結界などなんの役にも立たない。奈子にはここで死ぬ気など、さらさらなかった。
「ちっ」
 小さく舌打ちしたアィアリスが、一瞬後ろに下がる。
 同時に、二人の間に小さな眩い輝点が現れた。
 間髪入れず奈子が前に出て、剣でその輝点を叩き斬った。
 光は小さく弾けて消滅する。さらに、アィアリスの胸のあたりが浅く裂けて血が滲んでいた。
「それをやりたきゃ、アタシを殺してからにしな」
 奈子は吐き捨てるように言った。
 あれは『破滅の光』だった。
 奈子がトゥラシを消滅させた力。
 アィアリスがハシュハルドを消滅させた力。
 あの力を持ってすれば、レーナ遺跡を破壊できる。というよりも、破壊のためにはそれだけの力が必要なのだ。
 前文明が築いた巨大な兵器、生半可な魔法では傷ひとつつけられない。
 破滅の光は極めて強力な魔法ではあるが、それだけにどうしても隙が生じてしまう。一瞬のこととはいえ、竜騎士の力を持つ二人が至近距離で一対一で闘っている時には、その隙が致命傷になりかねない。
「確かに、ね。いくらなんでもあなたを舐めすぎたわ。じゃあ……」
 ふっと、アリスの身体がかき消えた。
 彼女が得意とする、極短距離の転移攻撃だ。
 弟のアルワライェもそうだったが、これで相手を攪乱し、背後をとる戦法をよく使う。
 奈子は、素速く剣を背後に回した。
 狙い違わず、同時にアィアリスの気配が後ろに現れる。
 しかし。
「――っ?」
 奈子の剣は空を切った。
 一瞬後、アィアリスの姿が正面に現れる。一度背後に出ると見せかけて、すぐに転移し直したのだ。
 キィンッ!
 甲高い金属音。
 奈子の手から、剣が弾き飛ばされる。
 それでも反撃の体勢を取ろうとするが、同時にアィアリスの姿が消えた。
 ほんの一瞬、反応が遅れた。
 予想外だった。まさか、この極短距離転移を三度も続けるなんて。
 背後に気配が現れるのと同時に、衝撃が身体を貫いた。
 紅い光が迸る。
 灼熱の魔法の光が、腹部を貫通していた。
 その反動で、奈子は前方に飛ばされた。勢い余って数歩よろけたその先に、またアィアリスが現れた。
 そして――
 この世でもっとも禍々しい漆黒の刃が、奈子の身体を貫いた。


「ぐ……ぅ……」
 噛みしめた口の端から、呻き声が漏れる。
 全身から、力が抜けていく。
 これが、黒の剣の力。
 少しでも気を抜けば身体がばらばらになって、原子にまで分解されてしまいそうだ。奈子の、レイナ・ディ・デューンから受け継いだ強大な魔力が、辛うじてそれを抑えている。
 アィアリスが、至福の笑みを浮かべていた。
「私の、勝ちね。所詮あなたは人間、私を倒すことなどできないのよ」
「そう……かな?」
 開いた唇から鮮血が溢れる。
 舌が震えている。
 それなのに、奈子は笑みを浮かべていた。
 これは、負けじゃない。まだ勝機はある。身体を貫く黒の剣によって、力をどんどん奪われているとしても。
 前のめりに倒れそうになった奈子は、アィアリスの服を掴んでなんとか踏みとどまった。
「あんたが……ドールだとしても、……やっぱり人間さ」
「私が、人間? どこが?」
 嘲る声が、ひどく遠くに聞こえた。
 奈子は思う。
 本当に、人間じゃなければいいのに、と。
 ゲームや小説にでも出てくるような、怪物とか、魔王とか、世界を滅ぼす邪神とか。そんな敵であれば、もっと気が楽だったろうに。
 しかし、アィアリスは人間だった。少なくとも、奈子にとっては。
 ファージが人間であるのと同じくらい、人間だった。
 ……いや。
 それでいいのかもしれない。
 これは、人間の歴史なのだ。
 人間の歴史は、人間が紡いでゆく。
 人を殺すことの重みを、忘れてはならない。なんの罪悪感も覚えずに、生命を奪ってはならない。
 だから――
「あんたは……人間さ。こーゆーところが……ね」
「――?」
 奈子の掌が、アィアリスの身体に押し当てられていた。
 片手は、胸に。もう一方の手は、脇腹に。
 ドンッ!
 重い音が響く。
 そして、二人は静止した。
 無言の時間はほんの数秒のようでもあり、数分続いたようでもあった。
 突然、アィアリスの身体がビクッと大きく痙攣する。
 口から、鼻から、耳から、鮮血が噴き出した。
「な……に……?」
「……アタシの……アタシの世界の、人殺しの技だよ」
 自分でも思わなかった。まさか、こんなところで思い出すとは。
 水冥掌。
 それは、奈子が学ぶ北原極闘流の奥義だった。
 門外不出の秘技を、先輩である北原美樹が教えてくれた。
 その正体は、両手でタイミングを合わせて、血液の集中する部位に打ち込まれる衝撃波だ。血液中を伝わる二つの波はやがてぶつかり合い、増幅されて血管をずたずたに引き裂く。人を一瞬で失血に追い込む技なのだ。
 アィアリスの身体から力が抜けて、崩れ落ちていく。
 ゆっくりと倒れていくアィアリスに向かって、奈子はもう一歩踏み込んだ。
 驚きに目を見開いている顔面に、全身全霊を込めて拳を叩き込む。
 衝。
 鍛え抜いた肉体の力と。
 レイナから受け継いだ魔力と。
 その、すべてを拳の一点に集中させて。
 アィアリスの額に、拳を打ち込む。
 衝は、全身の関節の動きを完璧に同期させて打ち出す、相手の身体の内部にダメージを与える独特の突きだ。体内を突き抜けるように伝わる衝撃波は、脳を、崩れた豆腐のように破壊する。
 アィアリスの身体が後ろに飛ばされた。手は黒剣を握ったままで、剣が抜けた奈子の身体からは血が噴き出した。
「……力は、それを使う者がいなければ存在しないのと同じ。あんたなら、水冥掌の傷も致命傷にならないかもしれない。だけど脳を破壊されれば、魔法は使えない……」
 床に横たわったアィアリスの身体。
 周囲に、赤い染みが広がっていく。
「……死ぬしかないんだ。ただの……人間と同じく」
 ぴくりとも動かないアィアリスを、奈子は無表情に見下ろした。
 傍らに、主を失った黒剣が転がっている。
 アィアリスは、完全に息絶えていた。
 この手で、殺したのだ。
 血に染まったこの手で――
 脚から力が抜けていく。奈子はその場に膝を着いた。
 ひどく疲れているように感じる。このまま倒れて、眠ってしまいたい。
 しかし、まだ、やらなければならないことがある。
 それを思い出して、奈子はふらつきながらも立ち上がった。
 暑い。
 周囲の空気が、とても熱くなっている。
 由維の許へ歩み寄って、抱き起こした。下に敷いていたマントが、真っ赤に染まっている。
 それでも、出血は止まりかけていた。アィアリスが死んだために、傷に対する黒剣の干渉が失われたのだ。魔法による治療が効き始めたのだろう。
 しかし、由維の失血は既に危険な状態だった。奈子や由維レベルの魔法では傷を塞ぐことはできても、失った血液を補うことはできない。もう、魔法のカードも尽きている。
 血の気の失せた白い顔は、まるで人形のようだった。
「……由維! しっかりして!」
 その言葉が聞こえたのか、由維の目が微かに開かれる。
 唇が震えるように動く。小さく、笑ったようにも見えた。
「うれし……な……奈子先輩と一緒に、死ねる……」
 それだけをつぶやいて、また目を閉じる。
「なにバカなこと言ってんの!」
 奈子が叫ぶ。
「アタシは諦めないよ、最後の最後まで!」
 以前、誰かが言っていた。
 息絶える最後の瞬間まで、生き続けようとすること。
 それが、生命というものだ――と。
 生きている間は、諦めてはいけない。
 奈子自身、今にも倒れそうではあった。それでも身体に残った力を振り絞って、由維を背負って立ち上がった。
 とにかく、遺跡から脱出しなければならない。既に、秒読みが始まっているといってもいい状況だ。残り時間はほとんどない。
 外へ通じる通路へと向かう。
 一歩足を踏み出すごとに、バランスを失って倒れそうになった。
 軽いはずの由維の身体が、ひどく重く感じる。
 いつもの何倍もあるようだ。しかも、一歩ごとに重くなっていく。
 通路の入口に辿り着くまでに、もう何分もかかったような気がする。
 奈子の歩いた後には、血の跡が残っていた。
 魔法陣は直視できないほどに眩い光を放っているはずなのに、視界が暗くなってくる。
 暑い。汗がだらだらと流れ落ちる。真夏の炎天下どころではない。まるでオーブンの中にでもいるようだ。
 地鳴りと振動は、少しずつ強くなりながら続いている。
「こんなところで……死ぬはずがないよ……そうでしょ、由維?」
 奈子は話し続けた。そうしなければ、意識を失いそうだった。
 意識をつなぎ止めておくために喋り続けながら。
 一歩、また一歩、ゆっくりと進んでいく。
「王都を出るときの約束、……憶えてる? これが終わったら……結婚式、しよう……って」
 一瞬、膝から力が抜けた。倒れそうになるところをなんとか堪える。
 歯を食いしばって、脚を開いて、身体を支える。
 深呼吸をして息を整える。
 一息ついてまた足を踏み出したところで、バランスを崩して倒れてしまった。
「く……ぅ……」
 それでもまた、身体を起こす。しかし立ち上がろうにも、脚にまるで力が入らない。
 由維を背負ったまま、這うように進んでいった。
「ハルティ様にお願いしてさ……うんと豪華な……パーティを開こうよ……。……由維のウェディングドレス……可愛いだろ……ね」
 それはおそらく、もう訪れることのない未来。
 だけど未来を見続けていなければ、今にも力尽きてしまう。
 体力は有限だが、精神力は無限の可能性を持つ――それは誰の言葉だったろう。今は精神力だけが、傷だらけの身体を支えていた。
「……そして……さ、どこか緑の多い田舎に……土地と、家をもらって……さ……一緒に…………暮ら……」
 奈子の腕にはもう、前に進む力は残っていなかった。
 横たわったまま、由維の身体をしっかりと抱きしめる。
 視界が暗い。由維の顔もよく見えない。
 硬い床の感触も感じない。あんなに激しかった地鳴りも、揺れも、まるで感じられなかった。
 ただ、腕の中の由維だけを感じている。
 周囲の空気はひどく熱いはずなのに、由維の身体はどんどん冷たくなっていくようだった。
「由維……いつまでも……一緒だよ……由……維……」
 返事はない。奈子はその事実を無視した。
 唇を重ねる。
 体温の失われた唇を、しっかりと重ね合わせる。
「…………大好き……だよ」
 それが、最後の言葉だった。
 同時に、迸るような真白い光が二人の身体を包み込んだ。
 太陽よりも眩いその光すら、もう奈子の瞳には映っていなかった。



 それは、突然の出来事だった。
 少し前から、どこからともなく低い地鳴りが響いていたのだが、それが急に大きくなったかと思うと、いきなり真下から突き上げるような衝撃が一帯を襲った。
 地震どころではない。その地にいた者たちの身体は、一様に宙に投げ出された。
 ハルティやダルジィも、とても立っていることができずに馬を飛び降りて地面に伏せた。
 あちこちで悲鳴が上がり、怯えた馬が嘶いている。
 しかし、激しい揺れはすぐに治まった。
 一瞬前の混乱が嘘のように静まり返る。
 静寂は数秒間続き、そして――
 光が、弾けた。
 視界が真っ白になった。
 爆発のように突如出現した、真昼の太陽よりも眩い光が、真夜中の砂漠を照らし出していた。
 一瞬後、叩きつけるような衝撃波が再び付近一帯を襲った。鼓膜が破れるような爆発音に、誰もが耳を押さえる。
 そこにいた数万の人間全員が、その光景に目を奪われた。
 マイカラス軍の後方の砂漠から、天に向かって伸びる真白い光。
 目を細めても直視できないほどに眩い。
 それはどこまでもどこまでも真っ直ぐに、天球を支える巨大な柱のように伸びていた。
 周囲に、無数の雷光がまとわりついている。
 神々しくすらある光景。
 真昼よりも明るく照らされた砂漠に、無数の長い影が伸びる。
 遙か天空まで伸びた光の柱は、天頂にあった月の中心を貫いていた。
 誰もが無言で、その光景に見入っていた。
 それは、どのくらい続いていたのだろう。
 やがて、月の様子に変化が現れはじめた。
 丸い月の輪郭がぼやけてくる。さらさらと崩れる波打ち際の砂細工のように。
 鋭い刃物で切り取ったように鮮やかな輪郭を見せていた月が、雲のようにぼんやりとした光の塊へと変わりつつあった。
 そして――
 一人の例外もなく、全員が感じていた。
 何かが、壊れてしまったことを。
 身体の中心から、大きな塊をえぐり取られたような虚脱感を覚えていた。今まで自分たちを支えていた何かが、消滅してしまった。
 その意味するところを知っている人間は、ほんの一握りしかいない。
 突然、強大な魔力の流れを感じた。
 かつて感じたことのないほどの、大きな魔力。その塊が破裂して、細かな破片となって霧散していくような感覚だった。
 それでハルティは理解した。
 終わったのだ――と。黒の剣が、消滅したのだ。
「ナコさん……」
 空を見上げたまま、小さくつぶやく。
 同時に、光は出現した時以上に唐突に消えた。
 再び、闇が砂漠を包み込んだ。明るさに目が慣れていた分、闇がよりいっそう濃く感じられる。
 砂漠をぼんやりと銀色に照らし出す淡い月の光が、ひどく弱々しいものに思えた。


 形勢は一気に逆転した。
 混乱に陥ったのは両軍とも同様だが、状況を把握している指揮官が存在した分、マイカラス軍の方が立ち直るのが早かった。
 ハルティはすかさず、残った僅かな兵力をまとめて反撃を開始した。
 依然として数の上では教会の軍勢の方が遙かに多かったが、戦意がまったく失われていて、組織だった反撃はできなかった。
 指揮官を失い、そして黒剣の力が失われていた。彼らを支配していた圧倒的なカリスマが、突如として消え去ったのだ。状況を理解していない兵士たちも、そのことだけは感じていた。
 もう、戦争どころではないのだろう。部隊を再編して攻勢に転じるマイカラス軍の前に、教会の兵たちは我先にと逃げ出していった。
 東の空が白みはじめる頃。
 戦場に、動いている敵の姿は残っていなかった。
 動ける者はすべて逃走し、残ったのはマイカラスの軍勢と、おびただしい数の敵味方の屍だけ。
 そして、昨日の夕暮れとは大きく変わった光景が広がっていた。
 底が見えないほどに深い、大きなクレーター。
 まるで、火山の噴火口のようだ。
 レーナ遺跡の跡。
 遺跡は入口付近のごく一部を残し、完全に消滅していた。
 そこから放たれた力の大きさの割に周囲に被害が出ていないのは、そのエネルギーが極めて指向性の高いものだったためだろう。
 すべての戦闘が終わった後でハルティは部隊をまとめ、負傷者の手当てと行方不明者の捜索にあたらせた。
 誰もが疲れ切っていたが、まだやることは残っていた。
 ハルティとダルジィは、生き延びた。しかし、二人ともぼろぼろだ。朝陽が昇って周囲が明るくなったところで、お互いの姿を見て小さく笑った。
 やがて、全身に刻まれた傷の割には元気に動いているケイウェリが、ニウム・ヒロの戦死を伝えてきた。
 ハルティもダルジィも、しばらく無言で目を閉じて老騎士の冥福を祈った。ニウムは、子供の頃のハルティが最初に剣の使い方を教わった相手だった。
 サイファーとエリシュエル、そしてアルトゥル王国の赤旗軍も戻ってきた。
 疲れ切った表情ではあったが、一つの仕事を成し遂げた者らしい達成感が漂っていた。しかしそこにいる兵の数は、昨夜の半分以下だった。
 間もなく、ソレアも発見された。ひどい傷を負って意識不明ではあったが、傷は手当てされており、命に別状はなさそうだった。
 その傍らには巨大な赤竜の屍も横たわっていたが、ソレアと共に闘っていたはずのフレイムの姿は見当たらなかった。
 乱戦の中でハルティたちとはぐれたエイクサムも、自分では歩けない状態ではあったが生きて見つかった。
 死者は、数えるのが嫌になるほどの数だった。生き延びた者も、誰ひとり無傷ではいない。
 それでも、被害は少ない方だった。開戦前の最悪の予想から比べれば。ソレアが、アィアリスを完全に足止めしてくれたことが大きいだろう。
 戦の後処理は陽が高くなってからも続いて。
 昼近くになって、戦死者の名簿の末尾に、エイシス・コットの名が加わった。


 そして――
 奈子と由維は、ついに最後まで見つからなかった。



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