マイカラス王国の歴史上、最大の被害を出した戦いから、一年が過ぎた。
戦場にならなかった王都には、その傷跡はまったくない。しかし人々の記憶に刻まれた深い傷を癒すには、一年という時間では短すぎた。
数多くの失われた生命は、帰ってはこない。
それでも――
今日ばかりは、そんな辛い記憶は忘れられていた。
王都中の、マイカラス中の誰もが暗い過去を忘れ、明るい未来を祝っていた。
戦で命を落とした者たちを弔うための喪が明けたばかりの王都全体が、華やいだ空気に包まれている。
近年まれに見る、盛大なお祭りだった。
当然だ。
これを祝わずに、何を祝えというのか。
全国民が待ち望んでいた、この国の世継ぎが誕生したのだ。
国王ハルトインカル・ウェル・アイサールと王妃ダルジィ・フォアの間に、双子の女の子が生まれた。
マイカラスの法では、性別に関わらず長子が王位を継ぐことになっている。
これこそ、悲しみと決別するに相応しい、明るいニュースだった。
「あなたに、この子らの名付け親になってもらいたいんですよ」
祝いの言葉を述べる美しい魔術師に対して、ハルティが最初に言ったのがこの台詞だった。
幾分驚いたように目を見開いたソレアは、やがて微笑みながらうなずいた。
傍らでは、ダルジィが両手に一人ずつ、軽々と赤ん坊を抱えている。今の彼女はある意味、マイカラスで最強の母親かもしれない。
その横にはアイミィがいる。
ケイウェリもエイクサムもいる。
そして、はるばるアルトゥル王国から祝いに駆けつけたサイファーもいた。
「でも、陛下。あなた方お二人で、もう名前を決めているのではありませんか?」
ダルジィの腕の中の赤ん坊に笑いかけながら、ソレアは言った。ハルティとダルジィが、ちらりと顔を見合わせる。
「考えている名前がないわけではありませんが、あなたもきっと同じ名前を付けてくれると思っていますよ」
「……そうね、他には考えられないわ」
そこにいる全員が、同じ想いだった。
運命的なものを感じる。女の子の双子だなんて。
「今頃、どこにいらっしゃるんでしょう? ああ、私のナコ様……」
両手を合わせて、芝居がかった口調で空を見上げるアイミィを、ケイウェリが苦笑して見ていた。
ソレアは顔を上げて、片手でそっと自分の耳たぶに触れる。
「ずいぶん北の方……昔のレイモス領の辺りね。どこにいても、私には感じるから」
ソレアの耳には、紅い宝石のピアスが飾られている。一年ちょっと前に死んだ、親友の形見だ。
「たまには、顔を見せて欲しいですね」
ハルティが小さく溜息をつく。ソレアがくすっと笑った。
「……気を遣っているんでしょう」
「陛下がまた、浮気心を起こすといけないから」
ソレアの後を継いで、ケイウェリが遠慮なく笑う。
つられて他の者たちも笑いを漏らした。気まずそうなハルティと、むっとした表情を見せるダルジィを除いて。
「冗談ですよ。この子たちのことを知らせておきましたから、近いうちにきっと戻って来るでしょう」
まるでソレアの言葉に応えるかのように、二人の赤ん坊がにこっと笑った。
「奈ー子先輩!」
校門を出たところで、背後から甘えた声が襲ってきた。
なんの予告もなしに、由維が腕にぶら下がってくる。奈子はその小柄な身体を抱えて、頬に軽くキスをした。
「なーに? いきなり」
「だぁって、新学期の実力テストも終わったし。どこか遊びに行こ?」
「そうやって、受験生を気軽に遊びに誘わないの!」
奈子は由維の額を指先でつんと押した。
高校三年生の二学期が始まって、そうそう遊んでばかりはいられない。
とはいえ。
「夏休み中だってずっと遊んでいたのに、いまさら」
由維がぷぅっとふくれる。
確かに、今さらである。
海へ泳ぎにも行ったし、山へキャンプにも行ったし。
東京の両親と妹にも会いに行ったし。
街で映画やショッピングも楽しんだし。
一年ぶりに、二人きりで旅行にも行った。
約一ヶ月間の夏休みを、精一杯に遊んで過ごした。
去年の夏休み、後半ほとんど遊べなかった分を取り戻そうとするかのように。
「だからこそ、二学期になったら勉強しなきゃ。まだ高一のあんたとは、一緒に遊んでられないの」
「どうせ奈子先輩、白岩学園大でしょ? 空手大会の成績だけで推薦取れるじゃないですか」
白岩学園大学は、一芸入試の枠が広い。ましてや奈子は同じ白岩学園の高等部ということで、進学には非常に有利な位置にいる。女子空手の全国大会で連続優勝している奈子ならば、それだけで推薦枠に入れるはずだった。
「それにしても、一応形式だけとはいえ学力試験もあるんだし。特にアタシの場合、一、二年の出席率がすごく悪いんだから」
「それは自業自得」
「あんただって無関係じゃないでしょーが! このっ、このっ!」
奈子は由維の両頬をつねって引っ張った。
「ふぉんなふぉろ、ひっひゃっへ……」
由維がなにやら涙目で訴えているが、無視。
そこへ――
「奈子ー! 由維ちゃん! いま帰り? 試験も終わったし、どこか遊びに行こ」
陽気な声が追いついてくる。
奈子は由維を放して、その声の主をじろりと睨んだ。
「ほら、やっぱり今日は遊ぶ日ですよ」
つねられていた頬を掌でマッサージしながら、由維が笑う。
視線の先には、三年生になっても同じクラスだった亜依がいた。にこにこと笑いながら、奈子の腕にぶら下がってくる。それを見た由維が反対側の腕にまたしがみついて、奈子は両腕に小柄な女の子をぶら下げた形になった。
「亜依ぃ、あんたも受験生なら……」
「あたしは成績で推薦取れるもん。誰かさんと違って」
「だから! その誰かさんは少しは勉強しなきゃならないの!」
「いいじゃん、今日一日くらい。勉強なんて、今夜あたしが教えてあげる。ベッドの中で……ね」
腕を放した亜依が、奈子の首に腕を回して顔を近づけてくる。
「あ、ずるーい! ダメですよ、亜依さん」
唇が触れる寸前、唇を尖らせた由維が亜依の髪を引っ張った。
「いいじゃない。由維ちゃんはいつでもできるんだから。たまにはあたしに貸して」
「アタシは物じゃないぞ!」
という奈子の意見は、当然のように無視される。
「……ダメですよ、やっぱり。奈子先輩は私のものですもん」
「あのこと、バラしちゃうぞ?」
亜依がとっておきの切り札を出した。
「あたしはすごく驚いたし、奈子たちが帰ってくるまで毎日泣いたんだからね」
「一年も前のことだもん。もう時効!」
「……わかった。じゃあ由維ちゃん、三人で夜のお勉強しよ?」
「あ、いいかも」
「あのなぁ!」
「由維ちゃんの感じてる顔も可愛いし」
「だから! 何故お前がそれを知ってるっ?」
三人の少女が、夏の終わりのキリギリスよりもやかましく、ぎゃんぎゃんと騒ぎながら焼けたアスファルトの上を歩いていく。
そんな家路の途中――
「あいつら……、今ごろ向こうで何やってンのかな」
奈子は、独り言のようにつぶやいた。
「……なーんてことやってんのかな、今ごろは」
奈子は柔らかな草原の上に寝そべって、空を見上げていた。
柔らかな風が、静かに耳をくすぐる。
川のせせらぎ。
風に乗って舞う鳥の声。
緯度の高いこの地方、夏だというのに風はひんやりしている。とはいえ、横になっていて寒いというほどではない。
また、目を閉じる。
奈子はすぐに微睡みはじめた。
……白い光に包まれていた。
他になにも見えない。
なにも聞こえない。
暖かな雲の中に浮かんでいるような感覚だ。
母親の腕に抱かれていた、赤ん坊の頃の記憶が甦る。
どこにいるんだろう?
なにをしているんだろう?
奈子は自問する。
途中までの記憶はあった。
レーナ遺跡で、アィアリスを倒した。
由維を背負って脱出しようとしていた。
しかし力尽きて倒れて。
遺跡の爆発に巻き込まれたはずだ。月を破壊するための、膨大なエネルギーの奔流の中に。
だとすればここが、死後の世界というものだろうか。
意識はあるが、自分の身体が実体を保っているのかどうかも定かではない。
由維は……?
いる。すぐそばに。
見えるわけではない。触れるわけではない。
それでも、存在を感じることができる。
由維がいるならば、それでいい。
それだけで、安堵感に包まれる。
他になにもいらない。
……いや。
誰か、いる。
自分と、由維の他に誰か。
確かに、感じる。
その誰かが、奈子と由維を優しく抱いているのだ。
声が、聞こえた。
聞こえたような気がした。
耳に聞こえるのではなく、心に直接伝わってくる声だ。
『……ありがとう。そして、こめんなさい』
優しい、とても優しい女性の声。
静かに、語りかけてくる。
『遠い昔、私たちが犯した過ちに、異なる世界の住人であるあなた方まで巻き込んでしまって、お詫びのしようもありません。今の私にできる償いは、一つだけです……』
暖かく、優しい声。まるで母親のように。
だから、それが誰なのかわかった。
母親のように、と感じたのも当然のことだ。
何故なら彼女は――
「ん……あぁ……」
奈子は目を開けた。
いつの間にか、うとうととしていたらしい。
また、夢を見ていた。
レーナ遺跡で意識を失った後の、曖昧な記憶。
それでも、一年が過ぎた今でも思い出すことができる。
遺跡の爆発に巻き込まれ、奈子と由維の肉体は消滅したはずだった。
それを救ったのは――救ったという言い方が正しいのであれば――あれは、ファレイア・レーナだろう。
エモン・レーナの母。
レーナ遺跡――大いなる槍を造った人物。
前文明において、最高の力を持った魔術師。
レーナ遺跡には、彼女の記憶が、力が、封じられていたのだろう。聖跡に、エモン・レーナやクレイン、そしてファージの記憶が封じられていたように。
ファレイア・レーナは既に、物質の束縛を受けない次元の住人だった。月が失われたとしても、この惑星上でなくても、力を使うことができる存在だ。
彼女は、まだ、存在している。実体は持たなくとも、その意識は残っている。
それでも決して、現在のノーシルの運命に干渉することはない。ただ見守っているだけだ。
自分たちの子孫の生き様を。
ただ一度、彼女が自ら課した禁を破ったのが、奈子と由維を助けたことだった。「あなた方はこの世界の人間ではないのだから、ルール違反ではないでしょう」と笑っていた。
奈子と由維の肉体は既に失われていたが、ファレイアには、それをもう一度構成し直すことができた。聖跡がそうやって、クレインやファージを不死としていたように。
彼女は言った。今ならまだ、奈子と由維を元の世界で再構成することもできる、と。
その言葉に、まったく悩まなかったと言ったら嘘になる。
それでも奈子は、この世界に残ることを選んだ。
自分がしたことの結末は、自分の目で見届けなければならない。
しかしファレイアは、奈子の決心に異を唱えた。元の世界に残してきた家族や友人がいるはずだ、と。
彼女も母親だから、そう思うのだろう。自分の娘であるエモン・レーナを、二度と会えない未来へ送ったから。
しばらく言い争った末、途中で目覚めた由維の言葉で妥協案を見いだした。
そして今、奈子と由維は両方の世界に存在している。
再構成した肉体ならば、必ずしも一つだけである必要はない、と。
どちらが本物で、どちらが偽物というわけではない。ファージがそうであったように、魔法で創りだした完全な複製だ。肉体も、精神も。
オリジナルの肉体は失われ、オリジナルとまったく同じ複製が二つ。
一人はこちらに、一人は向こうに。
そう考えると、不思議な気分になる。
自分は今、ここにいる。由維と二人で、異世界を旅している。
もう一人の自分は生まれ育った奏珠別の街にいて、高校に通い、由維や亜衣たちと学生生活を送っている。
ここにいる奈子がそうであるように、元の世界にいる奈子もすべての記憶を持っている。こちらの存在を知っている。
お互い、違う世界にいる自分を少しだけ羨み、少しだけ哀れんでいる。
多分、これでよかったのだろう。
二度と帰らない決心でこの世界へやってきたが、やはり、両親や友人との別れは辛い。こんな娘でも、失えば両親は悲しむだろう。
そして、この世界にも大切な友人たちがいる。想い出もある。
どちらか一方だけを選ぶなんて、できなかった。
「あれから一年……か」
あっという間だった気がする。だけど、様々なことがあった。
あの後間もなく、隣国カイザス王国との戦争があった。教会との戦でマイカラスとサラート王国が大きな損害を受けたのを見て、攻め込んできたのだ。
奈子も、マイカラスの騎士として戦場に立った。サイファーたちの協力もあって敵を撃退し、逆にマイカラスは領土を増やした。
その、マイカラスの新たな領土に、奈子の――マツミヤ家の領地がある。
奈子は断ったが、ハルティはこれだけは頑として譲らなかった。
そこは、いい土地だった。国土の大半が乾燥地帯にあるマイカラスにあって、貴重な、緑に覆われた地だ。
周囲を山に囲まれ、雰囲気が少し奏珠別に似ていた。
現在はソレアと、戦の後もマイカラスに残ったエイクサムに領地の管理を頼んである。
カイザスとの戦争のすぐ後、ハルティとダルジィの結婚式があった。
式が終わるとすぐに、奈子と由維は、二人だけで旅に出た。
あのままマイカラスにいれば、騎士として、貴族として、それなりに裕福な暮らしを送ることができた。
だけど。
自分だけ幸せになるのは辛い。死んでいった者たち、残された者たちのことを考えると。
安穏と暮らしていていいはずがない。
奈子は、自分の目で見なければならなかった。
月を一つ失ったこの世界が、この先どうなってゆくのか。
自分のしたことの行方を、この目で確かめなければならなかった。
いずれはマイカラスに戻ることになるだろうが、もっともっと、この世界のことを学ばなければならない。それは将来、領地を運営していく上でも必要なことだった。奈子はまだまだ、この世界のことを知らな過ぎる。
ファージもソレアも側にいない、由維と二人だけの旅。見知らぬ世界で二人だけで生きていく。
心細くもあり、辛いこともある。だけど楽しいこともあり、また新たな出会いもある。
いつか少しだけ成長して、マイカラスに帰ることもできるだろう。
「…………」
涙が滲んできた。
久しぶりに向こうのことを想い出したせいか、感傷的になっていた。
様々な想い出が甦えってくる。
「ファージ……」
彼女は、もういない。
この世界で、一番最初に出会った少女。
美しい金色の瞳をしていて、可愛らしくて、だけど残酷で。
ファージとの出会いがあったから、奈子は今ここにいる。
大変な事件に巻き込まれ、辛い思いもたくさんした。それでも、あの出会いを後悔する気はまったくない。
ここにファージがいないことが、今の奈子にとって一番の悲しみだった。
「……リューリィ」
次に想い出したのは、あの美しい少女のこと。
彼女のことは、今でも棘のように深く心に刺さっている。
これからずっと、負い目を感じて生きていくことになるだろう。
それは仕方がない。エイシスは、奈子と由維を守るために死んだのだ。
旅に出る直前、最後に会った時のことを想い出した。
『安っぽい同情なんかしないでよね』
相変わらず、怒っている顔も魅力的だった。
美しくて、そして儚げだった。
『ナコなんかより、私の方がずっと幸せよ。だって……』
その頃にはずいぶん目立つようになっていた下腹部に、そっと手を当てて言った。
『ここに、あいつの子供がいるんだもの』
その時涙がこぼれたが、口元は微笑んでいた。
その後しばらくして、ソレアからの頼りで元気な男の子が生まれたことを知った。
「子供……か……」
ぽつりとつぶやいて、奈子は身体を起こした。
「確かに……ね、少しあんたがうらやましいよ、リュー」
そればかりは、奈子には望めないことなのだ。
ファレイアによって再構成された奈子は、遺跡の爆発に巻き込まれた時の完全なコピーだった。それ以前の傷も、混じったレイナの遺伝子や記憶も、すべてそのままだ。
そうするしかなかったのだろうか?
いいや、違う。
ファレイア・レーナはおそらく、レイナの遺伝子を失いたくなかったのだ。レイナは、エモン・レーナの子孫。つまり、ファレイア・レーナにとっても遠い子孫だから。
「ま、いいか」
奈子は苦笑を浮かべた。
「どうせ今さら、アタシが男を好きなるなんてないだろうし」
由維さえいればいい。それだけで十分だ。
「そういえば、由維は?」
きょろきょろと周囲を見回すと、すぐに見つかった。
近くを流れる清流に脚を浸して遊んでいる。それとも、魚でも捕っているのだろうか。
その光景を黙って眺めていると、空から白鷺のような大きな白い鳥が舞い降りてきた。
由維が差し伸べた腕に止まる。
顔を近づけて、遠目に見るとまるで話をしているようだ。いや、事実その通りなのだろう。
奈子は立ち上がって、由維の方へ歩いていった。
由維がこちらを振り返り、嬉しそうに笑いながら川岸に上がってくる。
この鳥は、ソレアの使い魔なのだ。
時々、マイカラスの近況を知らせるために飛んできて、奈子たちのメッセージを持って帰っていく。
今回のトップニュースがなんであるか、二人には見当がついていた。そしてもちろん、その予想は当たっていた。
ハルティとダルジィに、子供が生まれたのだ。双子の女の子だという。
奈子が予想していなかったのは、その子たちに奈子と由維の名を付ける許しを求めてきたことだった。少し驚いたが、反対する理由はどこにもない。
もう一つ、二人を驚かせるニュースがあった。なんと、アイミィとケイウェリが婚約したというのだ。
これは本当に驚いたが、見かけによらずおてんばで我が儘なところがあるアイミィと、これまた見かけによらず細やかで面倒見のいいケイウェリというのは、なかなかお似合いかもしれない。年齢差は多少あるが、王族の婚姻ではさほど珍しいことではない。意外なのは、あのアイミィが男性を好きなったことくらいだ。
驚いたといえば、以前の便りでサイファーとエリシュエルが結婚したことを聞いた時にもびっくりした。後から知ったことだが、二人は血のつながっていない義兄妹なのだそうだ。今は、アルトゥル王国復興のために奮闘しているはずだ。
ソレアからのメッセージが終わった後で、ソレアには内緒で吹きこまれたらしいアイミィのメッセージがあった。「私が愛する男性はケイウェリ様ですけど、性別抜きに一番愛する人はナコ様、あなたです」そう始まったメッセージに、思わず苦笑した。彼女の性格からして、たぶん本心だろう。
その後に続くアイミィのメッセージの本題は、奈子と由維を心底喜ばせた。ソレアとエイクサムがなにやらいい雰囲気で、奈子たちが帰ってきたら結婚するつもりらしい、と。
最近のマイカラスでは、結婚と出産のニュースが相次いでいる。
それはいいことだ。
生きているのだから。
生きていかなければならないのだから。
生きている者たちは、生命を、次の世代に伝えていかなければならない。死んだ者の分までも。
向こうからのメッセージがすべて終わったところで、奈子は鳥に向かって語りかけた。その言葉が、ソレアたちの許へ届けられる。
「アタシたちは、元気でやっています。まだ、しばらくは帰れませんけど。でも、そのうち、きっと戻ります。小さなユイとナコに会いに行きます。それから……おめでとう。ソレアさん、アイミィ」
奈子の言葉を受け取った鳥は、翼を広げて飛び立った。二人の頭上で数回、大きく輪を描くように旋回してから南の空へと飛び去っていく。
奈子と由維は草の上に並んで座って、鳥の姿が見えなくなるまで見送っていた。
「いいなぁ、ダルジィ。……私も子供ほしいなぁ」
ぽつりとつぶやいた由維の台詞に、奈子の耳がぴくりと反応した。
聞き捨てならない台詞だった。
「子供って、誰のっ?」
つい、語気が荒くなる。冗談じゃない。そんなこと絶対に許さない、と。
しかし由維は、笑って奈子を指さした。
「奈子先輩に決まってるじゃないですか? 他に誰がいるっていうんです? 私、奈子先輩みたいに浮気っぽくないもん」
「なに言ってンの! できるわけないでしょ、女同士で……」
奈子の台詞の後半は、急にボリュームが小さくなっていった。由維が、ものすごく意味ありげな笑みを浮かべていることに気付いたからだ。
この笑みの意味するところは――
「……え? ま、まさか……ウソでしょ?」
「その、まさか」
由維が目を細めて、チェシャー猫のように笑う。
「前に、ファージが教えてくれたんだ」
今から千年近く前。
王国時代末期の大戦に続く暗黒の時代。
戦争で、男性の数が極端に減った時代。
惑星の環境が激変して、人口が急激に減少した時代。
その危機を乗り越えるために開発された技術。魔法の力で二つの卵細胞の遺伝子を結合させ、女同士で子供を作る方法。
それが、実在した。
「だけど両親が女だと、理論的に女の子しか生まれないでしょ。だから結局広まらなかったらしいんだけど……。それで、ね。具体的に言うと……」
言いかけた由維は、何故かきょろきょろと周囲を見回した。
ここは山の中。他に誰も聞いている者がいるはずがないのに、それでも恥ずかしいのか声を潜めて奈子の耳元に唇を寄せた。
「……を、……して、……に……するんだって」
聞いているうちに、奈子の顔も真っ赤になる。
「それって、すごく気持ちよさそう……じゃなくて! ちょっと、その……すごいっていうかなんていうか……」
「えへへ……、楽しみですねー」
「楽しみって、あんた、やる気?」
「とーぜん! 今夜は寝かせませんからね、覚悟しておいてくださいよ」
由維の目が、本気だった。
これ以上はないくらい、本気だった。
大きな挑発的な瞳で、まっすぐに奈子を見ている。
こんな表情をする時の由維は、少しファージに似ていることに気付いた。
そして奈子は、昔からこの目に弱いのだ。
「それとも、今すぐします? ここなら誰も見てませんし」
由維が身体を押しつけてくる。そのまま体重を預けて、奈子を押し倒した。
柔らかな身体。
相変わらず小柄ではあるけれど。
それでも、この一年でずいぶん女らしくなったように思う。
胸が少し大きくなって、腰の曲線が幾分丸みを増した。
そんな由維に迫られて、真っ昼間の野外だというのに、ついその気になりそうになる。
しかし、いくらなんでもここではまずい。
「ち、ちょっと待って! まだ心の準備が……」
思わず、大きな声を出してしまう。その口を、由維の唇がふさいだ。
奈子の声に驚いて、近くの茂みから数羽の小鳥が空に飛び立つ。
鳥の声のなくなった草原に、二人の甘ったるい声だけが響きはじめた。
「や……ぁん! ち……ちょっ、ダメだって!」
下着を脱がされたところで由維が本気だと気付いて、奈子は抵抗する手に力を込めた。由維は不満そうに唇を尖らせる。
「奈子先輩……私との子供、ほしくない?」
「それは欲しいよ、もちろん。だけど、赤ん坊つれて旅するわけにもいかないっしょ」
「あ……、そっか」
奈子はまだ当分、マイカラスに戻る気はなかった。二人で大陸中を巡る旅、大きなお腹の妊婦や、生まれたての赤ん坊を連れていては難しいだろう。
「由維との子供は欲しい。だけどまだ早いよ。マイカラスに帰ってから、……ね?」
なだめるように、頬にキスをする。一応納得した様子の由維ではあるが、まだ少し不満そうだ。
「赤ちゃんつれて帰って、みんなをびっくりさせようと思ったのになぁ」
「……って、ウケをとるためだけに子供を作るな!」
「だって……」
「慌てない慌てない。あんたまだ十五歳っしょ?」
「じゃあ、約束ですよ。マイカラスに帰ったら」
「うん、約束」
どちらからともなく手を出して、小指を絡ませる。そのまま、五本の指をしっかりと組んで手をつないだ。
涙が出てきた。
子供を持つことができる。
自分で生むことはできなくても、由維が生んでくれる。
一度は諦めたことが、実現できる。
この世界に、血を受け継いだ子孫を残すことができる。
子孫を残すこと。
それは、生命としての原初の悦びだった。
「子供の名前も、考えておかなきゃいけませんね」
奈子が止めどなく涙を流していることには触れず、由維は明るく言った。
「由奈ちゃんの時みたいに、ぎりぎりになって慌てないように」
「あ、それはもう決まってる」
手の甲で涙を拭って、奈子も努めて明るく応える。
「え?」
「だって、子供は必ず女の子なんでしょ? だったら、名前はもう決まってる」
奈子は優しい笑みを浮かべて、今はもういない、大切な友人の名をささやいた。
――光の王国・完――
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