三章 フィーニとミュシカ、二人の夜


 寄宿舎で、ミュシカは二人部屋を一人で使っている。
 以前は一年生が同室だったのだが、その子が数ヶ月前に転校していったため、それからはずっと一人暮らしだった。
 別に、一人が寂しいとは思わない。誰も自分に干渉してこない場所があるというのはいいものだ。
 ところが。
 その日、ミュシカが遅めの夕食を終えて自室に戻ると、そこに先客がいた。
 小柄な女の子。転入して一週間と経たないうちに、すっかり学園と寄宿舎の人気者の座を不動のものとしているフィーニ・ウェル・リースリングである。
 ミュシカは露骨に顔をしかめた。彼女は、ミュシカにとっては天敵である。
 可愛らしい容姿で、明るくて。一応は良家のお嬢様育ちのためか、奔放に見える割にはちゃんと上級生に対する礼儀も心得ている。
 ただし、ミュシカを相手にする時を除いて。
 ミュシカに対してだけは公園で会った時と同様に、乱暴な、上級生を上級生とも思わないような口のきき方をする。もちろん、周囲に誰もいない場合限定で。
 他に誰も気付いてはいないようだが、とんでもなく裏表のある性格である。
「……あんた、ここで何やってるの?」
 ミュシカはきつい口調で訊いた。
 寄宿舎の部屋の扉には鍵など付いてはいないが、よほど親しい間柄でもない限り、約束もなしに勝手に他人の部屋に入るなんて礼儀知らずも甚だしい。
「見てわかんないの?」
 フィーニは一瞬だけミュシカに顔を向けて、相変わらず乱暴な、人を小馬鹿にしたような口調で応えた。
「見て、って……」
 これまで使われていなかったベッドの上で、大きなバッグから取り出した衣類を畳んでいる。この作業の意味するところは……。
「あたし、ここで暮らすことになったから。よろしくね、ミュシカ」
「……はぁ?」
 一年生に呼び捨てにされたことよりも、その前の部分の方が問題だった。フィーニの言葉の意味が飲み込めるのと同時に、ミュシカはレイア様の部屋へ向かって駆け出していた。



「お姉さま、どういうことなんですっ?」
 淑女としての礼儀作法なんて、すっかり頭から消し飛んでいた。部屋の扉をノックもせずに乱暴に開けてミュシカは叫ぶ。
 椅子に座って読書をなさっていたレイア様は、優雅な動作で顔を上げると、優しい笑顔でミュシカをたしなめた。
「ミュシカ、お行儀が悪いわよ」
「今はそれどころじゃありません! どうして、あいつが私の部屋にいるんですか? 私は嫌だって言いましたよね? お姉様だって納得してくれたではないですか」
 息継ぎもせずに一気にまくしたてる。
「だけど、仕方がないでしょう? 私は明日から留守にするんですもの」
「あ……」
 そう言われて思い出した。レイア様は、遠くの街に住んでいる従姉の結婚式に出席するため、学校を休んで数日間留守にすると言っていた。
「でも、別に構わないじゃないですか。ほんの何日かのことなんですから……」
「まあ」
 レイア様は心外だと言わんばかりに、大げさに驚いてみせた。もちろん、いつもの演技なのだろうが。
「転入してきたばかりで右も左もわからないフィーニちゃんを一人にするなんて、なんてひどいこと。あの子もきっと不安になるわ。頼りになる上級生が傍にいてあげるべきではなくて?」
「転入してきたばかりだけど、すっかり慣れ親しんでいるみたいじゃないですか。もう何年もここに住んでいるみたいに。かなり図太そうですからね、心配いらないでしょう」
「ミュシカ」
 たしなめるような口調で名を呼ばれる。。
「あなたはシーリア女学園の二年生なのよ。上級生の自覚を持って、それに相応しい行動をしてちょうだい」
「でも……」
「せめて、私が留守にしている間だけ。お姉様からのお願い、ね?」
 レイア様は顔の前で手を合わせた。
 お姉様としての命令口調の次は、情に訴える懇願。これでは逆らえない。
 ミュシカは大きな溜め息をついた。
「……わかりました。お姉様が帰ってくるまで、ということであれば」
 渋々承諾して、ミュシカはレイア様の部屋を後にする。
(くっそう……なんでこんなことに)
 ぶつぶつ文句を言いながら自室へ戻ると、フィーニが我が物顔でお茶を飲んでいた。ティーセットはミュシカのものであるが、まるで遠慮している様子はない。相変わらずの人を小馬鹿にしたような笑みをこちらに向けた。
「レイアお姉様のところへ行ってきたんだ? 事情はわかった?」
「……まあね」
 それだけ応えると、決して歓迎してはいないことの意思表示に、できるだけきつい目で睨んでやる。それでもフィーニは表情を変えない。これが少しでも萎縮するような性格ならば、まだ可愛げもあるのだが。
「とゆーことで、ひとつよろしく。ね、先輩」
 この一言で、かぁっと頭に血が昇った。
 シーリア女学園において、上級生に向かって「先輩」とは何事だ。それは本来、男言葉である。女の上級生に対しては「お姉さま」と呼びかけるものではないか。ズボンを穿くと一見男の子みたいに見えるミュシカを皮肉っているのは明白だった。
 ミュシカは確信した。
 こいつとは絶対に上手くいかない。
 レイア様が帰ってきたら、さっさと引き取ってもらわなければ。
 よりいっそう不機嫌になったミュシカは、フィーニを無視して自分のベッドにもぐり込んだ。消灯までにはまだしばらく時間があったが、不愉快な顔をいつまでも見ていたくはなかった。



 早くに床についたためだろうか、夜中にふと目を覚ました。
 何か、声がしたような気がする。ここ数ヶ月の独り暮らしのためか、眠っている時の他人の声に敏感になっているようだ……と、半分寝ぼけた、ぼんやりとした頭で考えた。
 室内は真っ暗で、しんとしている。
 聞こえるものは自分の呼吸と、そして……。
「んっ……くっ、うっ……ひっく……」
「――っ!」
 泣き声、だった。
 誰かがすぐ傍で、声を殺してすすり泣いている。
 誰が?
 この部屋には、フィーニとミュシカしかいない。
 では、フィーニが?
 間違いなかった。声を押し殺しているようだが、それでも間違いなくフィーニの声だった。
 いったいどうしたことだろう。
 あの、天真爛漫で、底抜けに明るくて図太いフィーニが、どうして夜中にこっそり泣いたりしているのだろう。
 まるで予想もしなかったことだけに、そのか細い泣き声が胸に突き刺さってくる。
(まさか、あの子が……ね)
 冷静になって考えてみれば、よくあることだった。そう、寄宿舎に入ったばかりの新入生にはよくあることなのだ。
 ホームシック、である。
 起きている間は友達や上級生と楽しく過ごしていても、ベッドの中で一人になると急に心細くなるのか、家が恋しくなって泣き出す子が。
 だからこそ、寄宿舎では一年生と二年生を同室にするのだ。泣いている一年生を優しく慰めて、力づけてあげるために。一年前は自分が同じ立場だった二年生が、その心細さを一番理解できるから。
(しかしまさか……あのフィーニが……ねぇ)
 まったく思いも寄らなかった。
 寄宿舎にもすぐに慣れ親しんだ様子で、上級生にもクラスメイトにも可愛がられていて、ミュシカには喧嘩を売るようなタメ口で。
 とてもホームシックになるような繊細な神経の持ち主とは思えなかった。人は見かけに寄らないとはこのことだ。
 なんだか、可笑しくなった。あのフィーニでも家を離れるのは寂しいとは、可愛いところもあるものだ、と。
(いや……まてよ?)
 そこで、ふと、おかしなことに気が付いた。
 歓迎会の時、フィーニはなんて言っていた? 
『伝統あるシーリア女学園の寄宿舎で、素敵なお姉さまたちと過ごしたかったんですもの』
 確かに、そう言った筈だ。
 しかし、なにか矛盾してはいないだろうか。だったら何故、学年途中での転入なのだろう。昔からシーリア女学園に入学したいと思っていたのなら、普通に受験するはずではないか。転入試験の方が、入学試験よりもずっと難しいのだ。
 この街に本家があると言っていたから、フィーニ・ウェル・リースリングは間違いなく、名門リースリング家の一族だ。家柄や経済的に問題があるわけでもない。後から聞いた話では、転入試験はかなりいい成績だったらしい。つまり、学力的にも問題なしだ。
 だったら、何故。
 もしかしたら、何か急に親元を離れなければならない事情があったのだろうか。急なことで心の準備ができていなくて、こうして泣いているのだろうか。
(お姉様は……知っていた?)
 フィーニが、夜中に声を殺して泣いていることを。
 知っているに違いない。だから自分の留守中、フィーニを一人にしないように、ミュシカが嫌がるのも構わずに無理やり押しつけたのだろう。
 それにしても、この状況はどうしたらいいのだろう。
 レイア様ならきっと、優しく慰めるところだろう。
 ミュシカにも覚えがある。
 シーリア女学園の中等部に入学して、寄宿舎に入ったばかりの頃、レイア様が同室だった。
 生まれて初めて親元を離れての寄宿舎生活で不安な日々も、レイア様がいてくれれば平気だった。心細い夜はいつも、添い寝して慰めてくれた。
 優しく頭を撫でてくれる手が、どれほど温かかったことか。
 耳元でそっと「なにも不安に思うことはないのよ。私が傍にいますからね」とささやいてくれる声が、どれほど心強かったことか。
(私も、あんな風にしてあげるべきなのかなぁ)
 フィーニに対して。
 それは少しばかり抵抗がある。
 それに、フィーニもそんなことは望んでいないかもしれない。もしかしたら、知られたくないと思っているかもしれない。レイア様ならともかく、ミュシカに弱みを見せるようなことは屈辱に思うのではないだろうか。
 困った。
 どうしたらいいのだろう。
 泣いている下級生を放っておくというのは、いくらなんでも気が咎める。レイア様の信頼を裏切ることにもなるかもしれない。
 かといって、フィーニに対してどう接すればいいのかもわからない。
(とにかく……今夜は様子を見るか)
 無理やり、自分にそう言い聞かせた。
 もしかしたら、今夜だけのことかもしれない。これが続くようであれば、何か対策を考えよう、と。
 目を閉じて、眠ろうとした。
 だけどフィーニの啜り泣く声が耳について、その夜はなかなか寝付けなかった。



 朝。
 ミュシカがぼんやりと目を開けると、金色の光がカーテンの隙間から射し込んでいた。
 まだ、かなり朝早いのだろう。外では小鳥が盛んに鳴いている。
 意識がはっきりしてくると、昨夜の記憶が甦ってきた。寝返りをうって、隣のベッドに目をやる。次の瞬間、がばっと起きあがった。
 ベッドは、空だった。
「まさか……」
 壁に掛けられた時計を見る。起床にはまだ少し早い時刻だ。
 なのに、フィーニの姿がない。
 普通、誰だって決められた起床時刻ぎりぎりまで寝ていたいと思うものである。それより早く自主的に起きるなんて、何か特別な事情がある場合だけだ。
 ミュシカはベッドから降りてスリッパを履くと、寝間着の上に薄いカーディガンを羽織った。
 フィーニのベッドには、人の温もりは残っていなかった。
 部屋を出て、最初に足を向けたのは洗面所。次にお手洗い。
 早朝の寄宿舎は、まだしんと静まり返っている。どこにも人の姿はなかった。
「あの子ってば、どこ行っちゃったのよ!」
 まさか、取り返しのつかないことになってなきゃいいけれど。
 他に誰もいないのをいいことに、ぱたぱたとスリッパの音を鳴らして廊下を走る。ふと窓から外を見ると、朝陽に照らされている中庭に、人影が見えたような気がした。
 急いで中庭に出る。はたして、そこにフィーニの姿があった。
 大きく安堵の息をつく。安心すると、その反動で怒りが込み上げてきた。人を心配させて、こんな朝早くから何をやっていたのだろう。
「……って、いったい何を?」
 植込みの陰からそっと様子を伺うと、フィーニは剣を振り回していた。
 剣術の稽古なのだろう。右手に短めの剣を握って、低い姿勢で構えて。そこから目にもとまらぬ素速さで前に飛び出し、地面を滑るような低い蹴りで相手の脚を払うような動作をする。同時に、剣を下から上へ振り上げ、一瞬の間も置かずにまた振り下ろす。
 それが一連の動きだった。フィーニの頭の中にだけ存在する見えない敵を相手に、何度も何度も同じ動作を繰り返している。
(……なかなか、大したものじゃない)
 ミュシカは無言のまま、感心して見入っていた。
 あの、公園での大立ち回りを見た時から、単なる女の子の遊びのレベルではないと思ってはいたが、こうしてちゃんとした稽古を目にすると、本当に見事なものだと実感する。
 足の運びも剣の軌跡も、毎回寸分の違いもない正確さだ。その動きは目で追えないほどに速く、剣の振りは鋭い。甲高い風切り音が鼓膜を震わせる。
 もしもフィーニの前に立っているのがミュシカだったら、たとえ武器を持っていても何もできずに斬られてしまうだろう。
(マイカラス流の騎士剣術……か)
 長い剣を用いるもっと古い時代の剣術と異なり、小回りの利く短めの剣で、蹴りや突きといった徒手格闘術を組み合わせて闘うのがその特徴だ。五百年以上も前にこの国に伝えられ、魔法の衰退とともに世界中に広まっていった技だった。
 銃が戦争の中心となった現代でも、その格闘術は軍や警察で採用されているし、剣を警棒に持ち替えた捕縛術として残ってもいる。
 この技をマイカラスに伝えたのが、ナコ・ウェルだったといわれている。当時はマイカラスに限らず、どこの国でも女性騎士はそれほど珍しい存在ではなかった。
 今でもマツミヤ家や親戚のリースリング家には軍人や警官が多いというから、もしかしたらフィーニの父親もそうなのかもしれない。そして、幼い頃から騎士剣術を仕込まれたのだろう。
 今どき、女の子で剣術を学ぶ者などそう多くはないが、伝説の騎士ナコ・ウェルに連なる家系であればそんな常識は当てはまるまい。
 そもそもこの国は、他国に比べれば女性で剣術、格闘術を学ぶ者の比率が比較的高いと聞く。あくまでも他国と比べれば、の話であるが、シーリア女学園にだって一応剣術部はある。もちろんそれは、現代的な競技剣術であるけれど。
 伝統あるシーリア女学園の剣術部は、大会でも常に良い成績を収めているが、その部長でもフィーニには勝てないのではないか、とミュシカは思った。クラスメイトに剣術部員がいるので大会の応援に行ったことがあるが、今見ているフィーニの動きとでは、まるで速さが違う。
 フィーニは黙々と稽古を続けている。普段の彼女からは考えられないような真剣な表情だった。うっすらと汗ばんだ顔が、朝陽を反射してきらきらと光っている。
 昨夜のことといい、今朝のことといい、この少女の意外な一面を見たような気がした。単なる根っからの脳天気というわけではないのかもしれない。
 もうじき正規の起床時刻になるという頃になって、フィーニはようやく稽古を終えた。大きく深呼吸をした後で、ミュシカが隠れている植え込みの方に顔を向けてにこっと笑った。まるで、そこにミュシカがいることを最初から知っていたみたいに。
「おはよう、ミュシカ」
 ぱぁっと光が弾けるような印象を受ける、素敵な笑顔だった。つい見とれて、下級生に呼び捨てにされたことも気にならなかった。
 元気に剣の稽古をしているフィーニを見つけた時は、昨夜泣いていたことをからかってやろうかとも思っていたのだが、そんな気分ではなくなった。
 だから。
「……おはよう」
 微かに引きつった笑みを浮かべて、朝の挨拶を返した。



 その日一日、ミュシカが見ていた限りではフィーニの様子は普段通りだった。
 ベッドの中で泣いていたことなど、おくびにも感じさせない。ミュシカが買ってきたお茶の銘柄に文句を言いつつ勝手に飲んでいるところなどを見ると、昨夜のことはもちろん、今朝の天使のような笑顔さえ見間違いではないかという気がしてくる。
 それでも、とりあえず安心した。
 泣いていたのは、きっとたいした理由ではないのだろう。親元を離れたばかりの子供にはつきものの、ちょっとしたホームシックに違いない。外見や性格を考えるに、フィーニはきっと家族に甘やかされてきたに違いないから、なおさらなのだろう。
(特に、心配しなくてもいいよね)
 そう思って、消灯後は普通にベッドに入った。
 ところが。
「ちょっ……何やってんの、あんたはっ?」
 消灯から数分、ミュシカは慌てて枕元の灯りを点けた。何者かが……といってもそれはフィーニしかあり得ないが、ミュシカのベッドにもぞもぞともぐり込んできたのだ。
 悪戯好きの仔猫のような表情で、ミュシカの毛布を半分奪い取ろうとしている。
「……これは、どーゆー悪戯?」
 ミュシカは内心の混乱を隠しつつ、怒ったような口調で訊いた。
「可愛い妹が寂しくて泣いていたら、優しく慰めてくれるのがお姉さまの役目でしょ。ほったらかしなんてひどいんじゃない? ミュシカってば、なんのためにここにいるのよ?」
 可愛い、の部分に妙に力を込めてフィーニが言う。
「なんのために、って。ここはもともと私の部屋なんだけど。……って、あんた気付いてたの?」
 ミュシカが、泣いているフィーニに気付いていたことを、彼女は知っていたのだ。
「ミュシカってば、狸寝入りが下手」
 まともに指摘されて、ミュシカは赤面した。続く言葉が出てこない。
 それにしても、普通は立場が逆ではないだろうか。こんな時、泣いていた方がそれを指摘されて赤面することはあっても、その逆はないだろう。
 やはり、どこまでも図々しい性格のようだ。何が「可愛い妹が寂しくて泣いていたら」だ、冗談じゃない。寂しくて泣くどころか、ミュシカを小馬鹿にしたような表情でにやにやと笑っているではないか。もしかしたら、からかわれているのかもしれない。
「レイアお姉さまは、優しく添い寝してくれたよ?」
「そりゃあ、お姉さまは優しい方だから……って、添い寝っ?」
 何か、聞き捨てならない単語を耳にしたような。
「別に、驚くことじゃないでしょ。ミュシカだっていつも添い寝してもらっていたそうじゃない」
「――っ!」
 また、顔が真っ赤になった。確かに事実ではあるが、それはミュシカが中等部の一年生だった頃の話。そんな「子供の頃」のここで話を持ち出されるとは、まったく予想もしていなかった。レイア様のお喋りにも困ったものだ。
「ミュシカってば、見かけによらず泣き虫なんだ。それとも、レイアお姉様と一緒に寝たくて泣いているふりをしたのかな?」
「み、見かけによらずは余計よ! それに、あんたじゃあるまいし、そんなことするわけないでしょ!」
「……よくわかってるね」
 フィーニがほんの少し、驚きの表情を浮かべた。からかうような笑みに、感心したような気配が混じる。
「そうだよ。ミュシカに添い寝して欲しかったから、泣いている振りをしたんだよ。なのに、全然構ってくれないんだもの……」
「え?」
 あまりにも意外な台詞だった。一瞬、心臓が大きく脈打つ。
 俯いて長い睫毛を伏せたフィーニは、泣きそうなのを堪えているように見えた。
「ちょっ……え? ちょっと、フィーニ……冗談、でしょう?」
 声が、ほんの少しうわずっていた。
「当たり前でしょ。なに本気にしてンのよ、馬鹿」
「――っっっ!」
 一瞬で、フィーニの表情は豹変した。ミュシカの慌てぶりを見て、お腹を抱えて笑い出す。ミュシカは今度こそ、怒りで息が詰まった。
「――っ、あっ……あんたねぇっ!」
「ミュシカってば単純ー。好きって言われると、すぐにのぼせるタイプだよね。将来、結婚詐欺には気をつけた方がいいよ」
「……、……」
 もう、何も言えなかった。酸欠の金魚のように、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
「じゃ、お休み」
 ミュシカをさんざんからかったフィーニは、満足して自分のベッドに戻るのかと思いきや、そのまま横になって毛布にくるまった。
「ちょっとフィーニ、自分のベッドに戻りなさいよ」
「やだ」
「やだ、って……」
「お願い。……一緒に、寝て?」
 こちらを見上げて、大きな瞳を潤ませている。怯えた仔犬のようなその表情を見ると、またからかわれているんだとわかってはいても、どうにも強く出られなくなってしまう。
「……勝手にすれば。でも、枕は自分のを持ってきなさいよ」
 毛布はともかく、枕は二人で一つのを使うというわけにはいかない。そんなことをしたら、抱き合って眠るくらいに密着しなければならないことになる。
「もう持ってきてる」
「え?」
 見ると、フィーニの頭の下にはちゃんと枕が置かれているではないか。いつの間に持ってきたのだろう。
 ミュシカは小さく溜息をついた。昨日からずっと、いいように振り回されっぱなしだ。フィーニがなにを考えているのか、まるでわからない。
「……もう、どうでもいいや。私は寝るよ」
 灯りを消して、ミュシカも横になる。と、いきなりフィーニがしがみついてきた。
「ちょ……、何するのよ!」
「へへへ……抱き枕」
「あのねぇ!」
 文句を言いかけて、はっと気付いた。
「……あんた、お姉様にもこれを?」
「えへへー。な、い、しょ」
「内緒って、そんな……」
 ああ、考えたくもない。フィーニに抱きつかれて、密着したまま眠るレイア様。冗談じゃない。
 一種のやきもちである。誰にでも優しいお姉様だけど、一番よくしてもらっているのは自分だ、という自惚れがある。そのミュシカを差し置いてベッドの中で抱擁だなんて、図々しいにもほどがある。
「ミュシカってばやきもち妬き?」
「べ、別にそんな……」
「間接抱っこ、って考えればいいでしょ」
「いいわけないって」
「レイアお姉様も言ってたよ。昔はよくミュシカとこうして寝ていたのに、最近はそんな機会もないから寂しいって」
 そういえば、お姉様と抱擁なんてしばらくしてないな、なんて考えてしまった。レイア様に優しく抱きしめられる感触に未練がないとはいえないけれど、いつまでも子供ではいられないのだから仕方がない。
「ミュシカって、本当にレイアお姉様のことが好きなんだね」
「好きだよ。お姉様のことは、誰だって好きに決まってる。優しいし、頭もいいし、本当に素敵な人」
「じゃあ、あたしのことは?」
「え?」
「あたしのことは好き?」
「……嫌いだね」
 一瞬躊躇ってから、はっきりと言った。ちゃんと言っておいた方がいい。そうしないと、いくらでもつけあがりそうだった。
 ところが、いくらかでも傷ついた素振りを見せるかと思ったフィーニは、逆にくすくすと笑っている。
「ミュシカってば、優しいんだよね。だから好きでもない相手だって、好意を示されると邪険にすることができないんだ」
「……なによ」
「ミュシカってば優しくて……そして、残酷だ」
 一瞬、胸がぎゅっと締め付けられるように感じだ。
 フィーニにとってはおそらく無意識の台詞なのだろう。しかしミュシカは、以前別な相手からも同じことを言われたことがあった。
「……」
 しがみつかれて、フィーニの体温を感じる。呼吸を、鼓動を感じる。
 レイア様以外の誰かがこんなに近くにいるなんて、本当に久しぶりのことだった。



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